以前、ライムスターの宇多丸さんが
映画を観終わってから思い出している時が本当に観ている時と言っていたんですが
最近またそれについて考えていたので書いてみます。
マンガも小説も映画も、あとももクロのライブもそうですが
対象を取り込んでいる時には何も考えないなあと思いました。
それがいいことなのかはよくわからないんだけど。
なので、例えばライブ終わって飲み会でも
すぐに感想を言ったりすることがうまくできないんですよ。
それどころかぼーっとしてしまって
あそこがどうだったとか言っている人をとても尊敬の眼差しで見ています。
でも何も感じてないかというとそうじゃない。
うーん、これは一体なんなんだろう。
という疑問から考えてたんですね。
そして、行き着いたのがこれ。タイトルの保存と考察。
対象を見ている時、すなわち観ている・読んでいるという状態の時
いかにして純粋な状態で対象を取り込むかということが
私の中で重要なんではないかということ。
映画であれば画面で起こっている出来事
小説であれば喚起された情景に
ライブであればすべての空気感をそのまま取り込みたいという欲求。
記憶というのは薄れていくし
どんな記録方法を使っても完全な状態で自分の中に残すことはできない。
では完全な状態とは何か。
それは純粋な対象物と向かい合っている時。今なのです。
これが保存です。
どうしてそんなことをするのか。
思うにそれは、自分というフィルターをできるだけ外したいと思ってるようです。
できるだけありのまま保存して、あとから反芻しながら
自分のフィルターをかけていく。
どう感じたのか、どう思ったのか、何に気づいたのか、
何を受け取ったのか。
時間をかけてゆっくりと自問自答していく。
もし、最初からこう受け取るという自分のフィルターがかかっていたら
あらかじめ用意されていた、自分好みのフィルターでしか
感じ取れないような気がするんです。
自分を持っていることがいいことだと評価されがちな世の中ですが
それが新しい何かを邪魔するものでもあるんじゃないかと思うんです。
これが考察。
さらに楽しいのは、たっぷり自問自答して自分が感じたことをまとめたら
今度は他人の意見を見て聞いていくんです。
レビューを読んだりブログをあさったり、ハッシュタグ追ったり
同じ対象物から、さまざまなフィルターをかけられた意見を追っていく。
その時に自分の中で、純粋な対象物と自分のフィルターがかけられた対象物が
分かれていることで、素直にいろんな見方を受け入れられる。気がする。
純粋な対象物の記憶、自分のフィルターをかけた考察、他人の意見。
この3つで初めてあれはなんだったかというのが私の中で完成する。
3次元の立体感を持って名前をつけて保存されるのです。
