小さな随筆誌「紅」第71号


十年前の六月と、ことしの三月に私は網走へ行った。十年前は釧路から釧網線で、駅に着いたのが夜であった。まだ寒いはずの終着の駅で、羽虫や蟻(*蛾?)が飛び交い、まばらな人々はいずこともなく姿を消した。

 私はとりとめなく街に歩みいる。目覚めは早く、窓をあけて町を見入ると、それは、どんよりとした空の下に横たわる。私は不思議な感慨におそわれる。ここの、ここまで人の営みがあるかと。もちろん漁船は港にひしめき、街にはのみ屋があふれ、ドヤドヤッと海に生きるたくましい人々があらわれ、声高く活気にみちる。六月は網走の初夏だろう、緑はあざやかに、網走川はゆったりと流れる。にもかかわらず、ここの、ここまで人々の営みのあることが不思議でならないのだ。

 三月は流氷をみたいとやってきたが、風の吹きまわしで、はるかな沖合いに去り、濃緑青の水平にきらきらと輝いているオホーツク海は、こんなに美しく澄んでいるものか。

 宿の窓から私は網走川の流れをみる。この朝はうっすらと雪が降り、樹木は垂直に立ちならび、塩の如く沈黙、私もまたしばし声をのむ。やがて町に出て、橋にたたずんで、川の流れをみるともなく眺める。突然、十数羽の海鳥が水面すれすれに羽ばたき弧を描く。この空間は虚無である。十年前も十年後も、この空間は動かないのだ。人々は何んによって生のよろこびをよろこびとするのであろう。富んでいて、貧しいのが網走の町か。


小さな随筆誌「紅」第70号


女は“帰るわ”とうつぶせになってすすり泣く。男は女の肩にやさしく手をおき“馬鹿いうな”とつぶやいたようだ。私はそのそばで、見てみない振りをしてい たが、なんとなく物悲しい思いであった。

私はまた親元を離れ、当てもなく釧路にやってきた。最果ての町といわれた昭和十五年頃のことだ。男も漂然と街にあ らわれ、洗濯屋に住み込み、大きな袋を肩に、にこやかに近よってきた。どうして仲がよくなったか私にはわからない。名も知らない。間もなく細君が追いかけ てきて、男をつれ戻そうとする。話がもつれて別れ話になったようだ。釧路の九月は重い灰色にぬりこめられ、霧が間断なく襲い、こげくさい匂いが街にたちこ める。霧笛がなると魂をひきずりこむかのように胸の底の底までひびいた。浦見町の下宿の二階から港の夕日が、血が燃ゆるようにまぶしかった。男は、オレは はかない旅ガラシーと低く余韻をひいてうたったものだ。二年ほどの滞在で、私は、私なりに人生のほろにがさ、生きることの切なさを知らされる思いであっ た。

十月のある日、地獄坂の上で男とあう。どうしたときく。坂の上からながめた釧路の街はやがて霧のなかに消えようとしている。寒々としたすくいがたい風 景であった。返事がないので私はふりかえる。男は、ああといい、街をじっとみつめ膝をぬらしている。

 回想の友よ。

 もう二度とあうことはあるまい。お前がもしどこかで生きていたら、私のことを思い出し涙ぐんでいるかも知れない。倖せでいるようにと祈っているかも知れない。

PCトラブルによりアカウントと原稿データを紛失してからしばらく休止していました。
HDを復旧しデータが復活できましたのでこれから徐々にアップを続けていきます。


小さな随筆誌「紅」第69号


病院の彼は掛けフトンの端をあげ、割バシでささえた。母がそのわけをきくと、こうすればお母さんの姿が、いつでもみられるからといったという。彼とは北海道が生んだ異色の画家山田義夫のことだ。短い生涯をこの江別の地でおわる。
駅前に降りたつと、大幅な国道がゆるやかな曲線を描いて、市街を分断する。駅の左方の小高い丘に神社、その後方に岩田醸造があるはずである。何回か来ているくせに、いつまでたってもわからない。私と江別のつながりは岩田さんと山田以外にはないのだ。岩田さんは山田の死後、その作品を大切に保管しているときいた。山田と私のつながりは書くに価しないほど短いけれど、彼の作品からうけた衝撃は大きく、私の心をむしろかく乱させた。よりよい仕事をしている同時代人にシットと反目をもたないではいられない人もあるにちがいない。私はその反対だった。山田の尊敬する作品からは、自分自身がゆらぎ、ゆさぶられ、崩壊していくような気がした。こうも思う。詩人というものは、いつもある深淵をのぞき、垂直に生きるものなのだと。私はついに深淵をのぞこうにものぞけず、彼ははっきりとのぞいた。 市街をぐるっとひとまわりして、また駅前に戻る。石狩川を背後に形成されたこの街は、不思議な感動をもたらす。それはなんだろう。 春は浅く、雲はまだいらだち、こずえに青のほのおがもえる。私は急に寂しくなり、岩田さんに挨拶しようかと思い、いや、と思いとどまり、列車に飛びこむ。 何やら安心し、一服つけ、深くすいこんだが、たちまちむせてしまった。