未来を予測するという「予言機械」

予言機械を巡って起こる事件の数々

そして、予言機械は現在と断絶した未来を語り始める

 

 

第四間氷期(1959)

◆作者 安部公房(1924~1993)

◆出版 新潮文庫(1970)

 

  第四間氷期

 

 最初に「予言機械」というものが出てきます。

 これは電子計算機(コンピューター)のプログラムに様々なデータを与えることによって、未来を予測しようとするものです。

 ソ連ではすでに予言機「モスクワ1号」と「モスクワ2号」が作られており、天気予報から始めて、産業経済面の予測も行えるようになっています。

 そして、未来は共産主義の世界になるとも予言します。

 

 それに対して日本では、中央計算技術研究所で「KEIGI-1」という予言機械が作られます。

 「モスクワ2号」の多分に政治的な(それだけにイデオロギー的な)予言に対する反省の上に、「KEIGI-1」では政治に関連した予言は排除することになります。

 では何の予言をしたらいいのか。すでに自然現象の予言(予測)はできるようになっていましたが、それは論理上当然の事態でした。真に予言の名に値するものは何か。社会的な事柄はどこかで政治に結び付いていきます。

 様々な案が提案されますが、なかなか決定されませんでした。

 

 そんな中、予言する事柄の内容を早急に決定するように求められた「私」=勝美博士と助手の頼木とが、個人の未来を予言することを思い立ちます。政治的なものとは縁のない私的な予測をすればいいというわけです。

 その方向でターゲットとなる「個人」を探していると、喫茶店の中である男が目にとまります。その男のあとをつけていく「私」と頼木。たどり着いたのはあるアパートの女性の部屋でした。

男はその女性の部屋に入っていき、外で見張っていた「私」と、部屋のドアの前にいた頼木の前で事件が起きます。

 翌朝の新聞には、「私」と頼木がつけていった男が、その部屋の女性に殴打の上、絞殺されたという記事が掲載されたのでした。

 

 その事件に疑問をもった「私」と頼木は、殺された男の屍体の脳神経に残ったデータを取り出し、それを予言機械に接続して事件を再現しようとします。

 そのプランを進めているとき、「私」に電話がかかってきます。
「もしもし、勝美先生ですね。御忠告しときますがね、私らのことには、あまり深入りはせんほうがいいですよ」
「知る必要はないと言ってるんだよ。警察じゃね、あの死んだ色男の後をつけていた、二人連れが怪しいってにらんでいるとさ」

 

 電話の後に、予言機械に残された男のデータは一つの人格のように話を始めます。

 その話の中で男は奇妙なことを言います。男が付き合っていた女性が妊娠したのですが、その妊娠した女性がこんなことを言ったということ。

「妊娠してから三週間以内だと、手術をしたうえに向こうから7000円くれる病院がある。・・・その病院にかけつけてみたら、ちょうど三週間目だと言われたので、その場で堕ろしてきた」

「三週間以内の妊婦の世話をすると、2000円ずつ手数料をもらえる」

 

 そうこうしているところに、その女性が服毒自殺をしたという知らせが入ります。しかも、神経にも働きかける強力な毒を用いて(ということは、予言機械による再現は不能ということです)。

 さらに勝美博士の妻も妊娠していたのですが、その妻が子どもを堕ろしてきたということ。

 その病院から7000円をもらって・・・。

 

 この辺りから物語は大きく転回していくことになります。

 

*            *            *

 

 『第四間氷期』は日本初の本格的なSFと言われています。

 しかし、以上までのところでは、非常にミステリー色の強い展開をしています。

 もちろんここまででも「予言機械」も出てきてSF的ではあるのですが、話の本筋として真にSFに値する話になってくるのは後半からです。

 

 この物語には「予言機械」や「地球温暖化」「海面上昇」、また「水棲人」等も登場し、その意味で大変SF的です。

 「電子計算機による未来予測」については、まだコンピューターすら作られていない1959年の段階で、そうしたものを予見し、現在のビッグデータの分析のようなことをやらせていることは驚嘆に値します。さらに、人間の脳神経をコンピューターに接続して、データをやり取りすることは現在でも研究途上の段階です。

 さらに地球温暖化や海面の上昇も、現代になって私たちが直面してきた問題です。

 こうしたことをこの作品が書かれた時点で小説に取り込んでいるところは、いわゆるSF(Science Fiction)作家・安部公房の先見性です。

 

 しかし、この小説の目指しているところは、実はそこにはとどまらず、さらにその先に向かっています。ここからは思弁的な意味でのSF(Speculative Fiction)作品となっています。

 安部公房自身がこの小説の「あとがき」で、この『第四間氷期』の意図したところを書いています。

「未来は、日常的連続感へ、有罪の宣言をする。この問題は、今日のような転形期にあっては、とくに重要なテーマだと思い、ぼくは現在の中に闖入してきた未来の姿を、裁くものとしてとらえてみることにした。日常の連続感は、未来を見た瞬間に、死なねばならないのである。未来を了解するためには、現実に生きるだけでは不十分なのだ。日常性というこのもっとも平凡な秩序にこそ、もっとも大きな罪があることを、はっきり自覚しなければならないのである。

 おそらく、残酷な未来、というものがあるのではない。未来は、それが未来だということで、すでに本来的に残酷なのである」

 

 現在の視点から未来を「悲惨な未来」とか「希望に満ちた未来」とか判断することは実は不可能ではないのか。未来はそれ自体として存在し、私たちの解釈を超えている。私たちが未来を解釈するのではなく、未来が私たちを過去のものとして解釈する(裁く)ことになるということです。

 これは未来予測としてのSFにとっては、自己否定になります。

 ある意味で、安部公房はSFに対してアンチ・SF小説を書いたのではないかとも思えます。(ちょうど中井英夫が『虚無への供物』で、ミステリーの手法を用いてアンチ・ミステリーを書いたように)

 未来予言機械が語り出す未来は、私たちの日常的な常識を覆すビジョンを語り始めるのですが、本当の未来はもっともっと途方もないものになり、現在の現実とは断絶しているものだと私たちは認識すべきだと迫っているのです。

 

 ちょっと小さなところで気になったこと。

 水棲人たちが発電に「小型の原子力発電」を利用することになるということが出てきますが、3.11以降の私たちから見ると、安部公房が描いた未来には違和感を持ちます。

 『第四間氷期』が書かれたときに、原子力は未来のエネルギーであったでしょう。そう考えると、安部公房自身もまた、未来によって批判されたのだと思いますし、この小説はそうした事態をも繰り込んで批判の対象にしているメタ・SFでもあると言えるのではないかとも思えます。

 

 ともあれ、『第四間氷期』はミステリーとして、サスペンスとして、SFとして、様々に楽しめる、そして深く考えさせられる小説です。