◆題名 虚無への供物(1964)

◆作者 中井英夫(1922~1993)

◆出版 講談社文庫(1974)

 

 日本探偵小説の三大奇書というのがあります。

 「ドグラ・マグラ」(夢野久作1935)、「黒死館殺人事件」(小栗虫太郎1935)、そしてこの「虚無への供物」です。「ドグラ・マグラ」「黒死館殺人事件」はまだ読んでおりませんが、まずは「虚無への供物」を読んでみました。

 さすが三大奇書の一冊に数えられるだけあって一筋縄ではいかない作品です。以前も一度読んだことがあったのですが、その時の印象はめちゃくちゃ面白いのに、全体のストーリーが漠然としていて、推理小説として解決されたのかどうかがはっきりしない小説だと思いました。(実はこの読み方は案外的を射ていたのではないかとも思えます)

 しかし、今回改めて読んでみて、やはり凄い小説だという思いと、とんでもないものを読み始めてしまったという思いが相半ばです。

 

 「虚無への供物」はミステリー・推理小説です。

 「氷沼家殺人事件(ザ・ヒヌマ・マーダー・ケース)」と呼ばれる連続殺人事件が起こります。中心となるのは四つの密室殺人。探偵役の面々(主として奈々村久生、光田亜利夫、牟礼田俊夫、藤木田誠、氷沼藍司)がその密室殺人について激しく議論を交わし、トリックを見破ろうとし、犯人を探し、密室の謎を解決しようとします。最後には“驚くべき真相”も用意されています。

 読者は探偵役の面々とともに事件と密室の謎を解くために議論に参加し、事件全体の解決を目指します。最終的に犯人の口から事件の真相が語られて、この巨大な物語(文庫本で600ページを超えます)が終わります。

 

 じゃあ、普通のミステリー・推理小説じゃん、と思いますよね。

 しかし、作者の中井英夫はこの「虚無への供物」を「アンチ・ミステリー/反推理小説」として書いたとその「あとがき」で述べています。この「虚無への供物」という「ミステリー/推理小説」が何故「アンチ・ミステリー/反推理小説」なのか?

 

 最初の殺人事件が起こります。探偵役の人たちがその事件の解決に乗り出します。

 途中までは割と普通の推理小説のようにして進んでいきますが、だんだん何かおかしな、調子はずれな雰囲気が醸し出されていきます。

 事件はこの小説の登場人物の一人が書いた「凶鳥の黒影(まがとりのかげ)」という小説と、歌舞伎台本「花亦妖輪廻凶鳥(はなもようりんねのまがとり)」にそった形で進行していきます。そして、その密室殺人事件を解決するための議論が始まるのですが、その解決のために繰り出されるのが「不思議の国のアリス」やノックスの「探偵小説十戒」、ポウの「赤き死の仮面」、ルルー「黄色い部屋の謎」、江戸川乱歩「幻影城」等の古今東西のミステリーや不思議な話、ミステリー評論などです。議論の中には「その考えは過去の作品に先例があるからだめだ」というようなことまで述べられています。

 次第次第に推理のための議論が暴走し始めます。解決のための推理ではなく、まるでゲームのような様相を呈し始めます。

 

 同様のことが第二の殺人事件以降も続きます。

 その推理と解決のために使われる素材も次第に過剰なまでに膨らんでいきます。

 アイヌの蛇神伝説、不動信仰と黒月の呪い、色彩を巡る氷沼家の人々の名前と薔薇と五色不動の対応、シャンソンの歌詞、等々。これらが、これでもかというぐらいの勢いで事件解決のための議論に出てきますし、事件の方もそれらを含み込み膨らみながら展開していきます。こうして「虚無への供物」という小説全体が、どこか非現実の異次元へ、ワンダーランドへと通じていくような雰囲気を帯びていきます。

 それらを元にした議論と思いもよらない展開(非存在の人物が実は存在していた等)に私たちは翻弄されます。しかし、推理・解決のための議論は大変興味深いものがあり、それぞれが徹底的に真相を追求しています。こうしたところに推理小説ファンは、きっとたまらない魅力を感じるのだと思います。ここで言及されている先行作品を知っていればいるほど興味は尽きないとも思います。

 

 が、しかし、それぞれの事件解決に向けた議論を読んでも、一向に事件は解決に向かっているようには思えません。むしろ作者・中井英夫は、その一々の議論についてダメ出しをして、各事件についての決定的な解決を示さないままに次々に事件が繰り出され、私たちはもどかしい思いを募らせることになります。もしかするとただの自殺や事故であり、密室殺人そのものがなかったのではないかとも思えてきます。

 実はこのあたりが、とりあえず「アンチ・ミステリー」と作者自身が呼ぶ所以の一つではないかと思います。

 もともとミステリーというのは、不可解な現象や密室殺人やダイイング・メッセージや暗号等の「謎」があり、それを探偵役が合理的な「意味」へと解決していく物語です。「謎」の中では隠されていた本来の「意味」があり、それを発見し事件の表層に現れていたものを再配置すること。そこには犯人の「動機」や「意図」等の何らかの「意味づけ」も含まれています。こうして合理的な解釈をして全体をその本来の「意味」へと定位していくとき、問題は解決され物語は終わります。そこに読者はカタルシスを感じます。

 しかし、「虚無への供物」はそうした解決が周到に回避されているように思います。

 こうして、絢爛たる構築物のような連続密室殺人事件は、その「意味」を与えられずに定位されず、宙吊りにされたまま中空に浮くことになります。

 

 この「虚無への供物」には、1954年に起こった洞爺丸事故が大きく絡んできます。

 その洞爺丸事故だけに留まらず、翌1955年の紫雲丸事故を初め、1954~55年頃に発生した列車事故や放火事件、集団自殺等々実に多様な事故・事件についての、またそこで亡くなった方たちに対する言及が執拗に書かれています。もちろん戦争中の空襲で亡くなった方たちや原爆での被災者についても語られますし、登場人物の一人は広島で原爆の被災に関係があったようにも描かれます。

 中井英夫は、この「虚無への供物」で何故それほどまでに何度も何度も、そうした事故や事件に言及するのでしょうか?

 

 これらの事故や事件における大量の死あるいは大量の殺戮では、死からその「意味」がはく奪されています。

 何故その事故や事件で、その人が亡くならなければならないか、という必然性が見つからないのです。ただその場にいた、という以外にありません。たまたまその事故を起こした船に乗っていただけ、たまたまその場所を通りかかっただけで、その死は「無意味」です。ある人が亡くなり、ある人が生き残ったのは、まったくの偶然によるものです。戦中から戦後にかけて、そのような「無意味」な大量死、大量殺戮が膨大に増えていないか。

 個別の殺人事件などでは、そこに怨恨が絡んだり、脅迫に対する抵抗であったりという「意味」がありました。殺害する方にも殺害される方にもある「必然性」があり、そこにいたるまでの「物語」があったのです。しかし、この大量死、大量殺戮での死は「無意味」であり、そこにいたる「物語」を見出すことはできません。

 

 このような時代にはたして「死」に「意味」を見出す「推理小説」は可能なのかということが、この「虚無への供物」では問われているのだと思います。大量死、大量殺戮の時代における「無意味」な死と、先の推理する者たちの「推理の暴走」「意味の不在」とはぴったり対応しているのです。

 この物語の登場人物の一人が次のように語ります。

 「この1955年、そしてたぶん、これから先もだろうが、無責任な好奇心の作り出すお楽しみだけは君たちのものさ。何か面白いことはないかなあとキョロキョロしていれば、それにふさわしい突飛で残酷な事件が、いくらでも現実にうまれてくる。いまはそんな時代だが、その中で自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることが出来たら、どんな痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ。おれには、何という凄まじい虚無だろうとしか思えない。」

 そのような「無意味な死」の蔓延した時代に、無理にでも死に「意味」を見出そうとする「推理小説」「ミステリー」は欺瞞ではないのかということです。

 

 このような時代に「ミステリーという物語は存在できるのか」と問うているのが「虚無への供物」ではないか、だからこそ「アンチ・ミステリー」なのではないかと思います。もはや「ミステリー」という形では現代の「無意味な死」に「意味」を与えることは不可能である。それを告発するために、あるいは「ミステリー」を内部から崩壊させるために、あえて「ミステリー」の形を借りながら、あるいは「ミステリー」を偽装しながら書かれたのが「虚無への供物」という新しい「物語」であったと思います。

 そして、この「虚無への供物」は1954~55年という時代を通り越して、私たちの生きる今現在をも射程に収めているのではないか。3.11以降の私たちに、また秋葉原無差別殺傷事件の今、テロの時代の今に、それは問いを発し続けているのではないか、と思います。

 

 作者・中井英夫は「虚無への供物」を書くのに10年をかけたといいます。

 それほどに、この「物語」の伏線、展開、構造等は周到・緻密に作られています。

 これまで書いてきたようなこと以外にも、さらに二重にも三重にも仕掛けが施され、私たちは翻弄され続けますが、それは読んで味わってみてください。ただどこまでも「アンチ・ミステリー」に徹し、それを深化するための仕掛けです。あまりにも詳細な紹介は興をそぐことになるのでここまででやめます。

 

 最後に、この「虚無への供物」という新しい「物語」は、最終部分で「物語空間」の輪を閉じるようにできており、「物語」として完璧に自立しています。この「虚無への供物」という物語自体が、「無意味」という「虚無」に捧げられた絢爛たる「供物」でもあるのです。