「当たり前」にはしない/

人は、
当たり前のように生まれ、
当たり前のように老い、
当たり前のように病気になり、
当たり前のように死ぬ。

本当に当たり前だ。

しかし、自分の死に直面し、
目の前で苦しむお相手は、
そんな「当たり前」の存在ではない。

当たり前に死ぬ人生なんてない。どんな人生にも物語がある。

正邪、善悪、壮大であったりそうでなかったり、
スケールかだとか活動性だとか、
そんな尺度は全然関係ない。

すべての人生に物語があり、
すべての人が、その物語の主人公だ。

わたしが達観していないから、
一人一人の生死にひっかかる?
それならそれでいい。
一生、達観などいらない。

「あんたの説教など心に響かない。
あんたに何も期待していない。
僧侶なんて、毒にも薬にもならないから、
だから、あんたを呼んだんだ。」

そういいながら涙を流したお相手を、
私は忘れない。



木に立って子を見る=親、というのは、親の字を解体した説だが…
わたしは、「立木のように見守る」と解釈したい。

どちらにせよ、なかなかできていないが。

どんな老年期、どんな終末期、どんな看取りであってもいいじゃないですか。

人間として生きた最後の瞬間まで、人間。

そして、死の間際、周囲は、もしかしたら家族さえ気づかないかもしれないですが、

本人は、死も生も受け容れて(超越して)、

仏さまになっているのかもしれません。

そこへいたる前の段階で、死の実感もなく、死の温かみも、

死の神々しさも知らずに、

むやみに死や認知症を恐れたり、

他者のそれを嫌ったりさげすんだりすることに、

ほとんど意味はないと思います。


ましてや宗教者や医療者が、ピンコロだけを理想とするようなことを言ってはいけない。
絶対にいけない。

いいじゃないですか。どんな死に方=逝き方=生き方であっても。
仏教者は、いのちはあるだけで素晴らしいと、
もっと声を出さないといけない。
もっと。
働けない≒用無し、
なんてことは絶対にない。
そんな考えが、ピンコロ地蔵などという淫祠邪教を産む



技術の話をしたいわけではありません。覚悟があるかどうかなのです。
お相手への覚悟というよりも、自分自身を直視する覚悟があるかどうか。


覚悟があっても、人は迷います。ぶれます。


でも、覚悟がない人の迷いとぶれは、お相手への暴力です。

しかも、あなたご本人を傷つけます。

そういうどたばたを見せるために、現場に行くのですか?

現場でやることがあるから、行くのではないですか?

現場で受け入れてもらうために、何かの資格をゲットするのですか?

もう、現場に目が向いていないですよね、それは。

でも、大丈夫。あなたが、そもそも行動した、

その時の純粋な気持ちこそ、あなたの答えに違いないと思うから。


迷ったら、最初の気持ちに戻ればいい。自分自身への言い訳もいらない。