祖母のこと。 | おしゃべりとうちゃん家族日記+ディズニー旅行記

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おしゃべりとうちゃん家族の日々の出来事と、
我が家最大の年中行事「ディズニー旅行記」を掲載します。

こんばんは。

 

通夜の夜に徹夜をした翌日にすごい眠気に僅か数秒で寝入るという体験をして喜んでいたら

 

「それは寝入ったんじゃない、気絶したんだ。」

 

・・・と言われて、戦慄した男。

 

おしゃべりとうちゃんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先週、祖母が亡くなりました。

 

96歳の大往生でした。

 

体はすっかり衰えてあまり動けなくなってはいましたが、頭は割りとしっかりしていました。

 

コロナの影響でここ数年会えていなかったのが心残りでしたね。

 

久しぶりに親戚が集まっていろんな話をすることが出来ました。

 

今日はその時に聞いた祖母の話を書き残しておこうと思います。

 

ここは家族の日記で、私の覚書ですので御了承ください。

 

かなり長くなるの暇つぶしに読んでくれれば幸いです。

 

 

 

 

私がまだ小さかった頃、一枚だけ祖母の中学生位の写真を見たことがあります。

 

戦前ですから、かなり貴重な写真だったはずです。

 

なぜそんな写真があったのかはもうわかりませんが、

 

その写真をみて思ったこと、それは・・・・

 

祖母、めっちゃ可愛かった!ポーン

 

もうね 「○○○48」 とかに居ても全く違和感無いほどに可愛かった!

 

間違いなくモテた・・・ 10人くらいの同級生と写ってましたが、一人だけかなり飛びぬけてた!

 

祖母の娘の私の叔母も若い頃かなり可愛くってモテたと聞いていますが、

 

なるほど、この祖母の血を引いていたからだったのかと納得。

 

そして、この可愛かったことで、

 

祖母のその後の人生を決定付けるあることがおこりました。

 

それは、祖父に惚れられたこと!ニヒヒ

 

長良川の右岸側の集落に住んでいた祖母、対岸の集落に住んでいた祖父。

 

橋も近かったこともあり、まあ御近所さんですね。

 

どうやら、かなり早い時期から祖父は祖母を狙っていたらしい。

 

だが、祖母の父は祖父をあまり良く思っていなかったそうだ、

 

その理由は 「ものすごい呑兵衛」 と近所で有名だったから。

 

戦後で人手不足の中、戦争帰還兵で結構優良物件だったはずの祖父ですが

 

結婚は許可されなかったそうです。

 

ですが、祖父は諦めず、祖母に、祖母の父に何度も結婚をお願いしたそうです。

 

あまりのしつこさに危機感を持った祖母の父は

 

祖父から逃がす為に祖母を県外に就職に出しました・・・が!

 

祖父はその県外にまで追いかけてきたそうです。

 

今で言えば ほぼストーカー ですね。

 

とうとう祖母は根負けし、仕方が無く 祖父との結婚を承諾したそうです。ショボーン

 

当時親の承諾無い結婚はかなり珍しく、ほとんど掻っ攫うような状況だったそうな!

 

6人兄弟の次男坊だった祖父ですが、

 

長男は家を出てしまっていて実質跡取りで、実家は川向の近所なので

 

なにかあればすぐに駆けつけたり、逃げてこれる算段があったのかも知れません。

 

程なく私の父になる長男が生まれますが、その頃に予想外の事態が!

 

祖父の姉が子供を連れて出戻って来たのです。びっくり

 

そして祖父の父が姉の子供ばかりを可愛がり、祖母の長男(私の父)を相手しなくなったのです。

 

それがあまりにも露骨だったので義父との仲は最悪となり、

 

家には当時3人の小姑もいて小言が多く、祖母のストレスはMAXです!

 

祖母 「こんな家に居られるか!」ムキー

 

ってなもんで、祖母はこの家を出ることを決意、

 

祖母にベタ惚れの祖父は、仕方が無く 一緒に家を出ます。

 

跡取りよかったの? と思いましたが祖父も腹に据えかねることだったのでしょう。

 

いろんな所を転々としたそうです。

 

祖父は林業の山仕事をしていて、一時は仕事場の山小屋に住み込んでいたそうです。

 

赤子を連れ、何十人もの山男に囲まれての生活で大丈夫なのかと聞いたら

 

戦争帰還兵の祖父は結構強い立場だったらしく、

 

気の強い祖母は山男達の尻を叩きまくって、姉御のような立場だったそうです。

 

祖母 「頼めば動いてくれる人が沢山いて楽だったわ!」ニヤリ

 

なんて豪快に笑ってましたが、テレビ小説に出てきそうな話だなと思って聞いてました。

 

 

当時、日本中焼け野原だったので林業の忙しさは相当なもので

 

かなりの稼ぎがあったらしく、すぐに街中に新しく家を建てたそうです。

 

新しい家に引越してすぐに息子(私の父)に緊急事態が発生!びっくり

 

体調を崩し、どんどん体が痩せ細りとうとう動けなくなってしまったのです。

 

医者に行ったら寄生虫に寄生されているとのことでしたが、

 

物不足の当時、田舎では医者に行っても虫下しは手に入らなかった時代。

 

祖父も仕事で遠くの山奥に行ってしまっていたので、連絡付けるだけで数日掛かります。

 

いよいよ父の弱り具合は命に関わりそうなほどになり、えーん

 

そこで祖母は嫁入り道具の桐の箪笥を売却し、

 

そのお金で薬を工面してくれるように行商人に頼みました。

 

その行商人は当時各務原の飛行場にいた米軍から薬を手に入れ、

 

速攻で戻ってきてくれたそうです。

 

早速飲ますと薬の効果は抜群で、

 

綺麗なピンク色したミミズのような虫が何十匹も大便と一緒に出てきたそうです。

 

祖母 「あんなにいたら、そりゃどんだけ食べさせても虫育てとるようなもんやたったなショボーン

     川で洗濯したら魚が虫を全部あっという間に喰ってまって、いい気味だった!

     親が反対する結婚したから父とは仲悪かったけど、

     あの時の箪笥には感謝しとるわ!」ニヤリ

 

なんて豪快に笑ってましたが、テレビ小説に出てきそうな話だなと思って聞いてました。

 

 

その後叔母が生まれた頃のエピソード。

 

祖母は物凄く乳が出たそうです。

 

叔母にどれだけ飲ませても、胸がパンパンに腫れていつも痛かったのですが、

 

ちょうどその頃、裏の家に双子の姉妹が産まれ、そのお母さんはあまり乳が出なかったので

 

祖母が毎日何度もその双子に乳を飲ませていたそうです。

 

すぐ裏だったので、夜鳴きで子供が泣いてるのが聞こえると、

 

真夜中でも勝手に上がりこんで乳を飲ませていたそうです。

 

その家は結構裕福な家だったのでお礼に食べ物を沢山くれたので

 

父も叔母も結構いいものを不自由なく食べることが出来たんだそうです。

 

祖母 「でも三人に乳を飲ませたもんだから、ますます乳が出るようになって

     沢山飲ませたら、三人ともプクプクになってな、

     それでも乳が止まらないから、胸がいっつも臭かったわ!」爆  笑

 

なんて豪快に笑ってましたが、テレビ小説に出てきそうな・・・ 以下略。

 

その双子は大きくなってからも祖母の事を 「お乳のお母さん」 と言って慕っていました。

 

私も小学生の時に町で偶然一度会った事があり 「お乳のお母さん」 と祖母の事を呼ぶのを聞いて

 

私 (父のお母さんってどゆうこと? 孫? 大人すぎない? おっとうの兄弟なの?)滝汗

 

「乳」 と 「父」 を取り違えて、軽くパニック起こしてたのを覚えています。

 

 

祖父が家に帰ってきている頃にはある日課があったそうです。

 

毎晩のように祖父が夜に飲みに出かけて帰ってこないのです。

 

叔母 「右手に兄、背中に私をおぶって飲み屋をおじいを探して回ったのを

     今でもよく覚えてるは~。ニヤリ

     飲み屋に行くと飲んでるおじちゃん達が

     『今日も来たか~! 今日おっとうはここやないぞ?』 そう言って

     私らに つまみ をよう食べさせてくれたよ~。」爆  笑

    

そして祖父を見つけると連れて帰る・・・

 

私 「う~ん・・・ ダメ親父の典型みたいな話だな。」滝汗

 

叔母 「そんなんで堪えるような おじい じゃなかったで、酒が飲めるならなんでもいい。」ニヤリ

 

そういえば、それを覚悟で祖母は結婚したんだったな。

 

 

やがて祖父祖母にある転機が!

 

祖母の叔父から跡取りがいないから養子に来てくれと打診があったのです。

 

自分で建てた家が気に入っていた祖父はそれを断ったのですが、

 

ほぼ毎日のように家に来てお願いされたようです。

 

今でこそ車ですぐにいける距離ですが、当時は電車を使用して長時間かけての移動。

 

それがほぼ毎日・・・ 相当な意気込みを感じたそうです。

 

とうとう祖母は根負けし、仕方が無く 養子になるように祖父を説得することに。

 

その説得とは・・・・先に勝手に養子先の家に引越すこと。

 

それ説得じゃない!!ポーン

 

祖母にベタ惚れの祖父は、それでも数ヶ月は動かなかったそうですが、

 

とうとうは根負けし、仕方が無く 家を売って養子の家に入ったそうです。

 

この家が、私が産まれた今の実家です。

 

祖父も祖母も、これが最後の引越しとなりました。

 

 

ここで祖母にとって一生の中でもとても大事な出会いがありました。

 

それが、私からみた 「隣のおばさん」 です。

 

その後、祖母の一生涯の親友となる人です。

 

隣のおばさんに聞いた祖母の印象はかなり強烈だったそうです。

 

引越してきた祖母に挨拶に伺った時、初めて会った祖母は台所にいて・・・・

 

左手には幼い父と手を繋ぎ、背中には叔母を背負い、

 

右手には、たった今捕まえて叩き潰して殺した ねずみ を掴んでいたそうです。

 

一回り以上も年上だが背が頭一低くく、童顔の可愛らしい人なのにその立ち姿・・・・

 

隣のおばさん (あっ・・・ この人とは仲良くなれそう♪)照れ

 

そう思ったそうです。

 

そしてそれは事実になって、姉妹のようにほぼ毎日一緒に過ごしていました。

 

ねずみを素手で叩き殺すような人と、仲良くなれそうってのが第一印象とは・・・・

 

おばさんもなかなかだな~・・・ と思って聞いてました。

 

 

やがて母が嫁に来ます。

 

郡上弁は他の地域の人が聞くと物凄くきつい言い方に聞こえます。

 

母 「もうね、毎日叱られてると思った。」

 

それでなくても気が強い祖母の言い回しは更に相当きつかったようだ。

 

母 「毎日泣いたよ~・・・ 最初のうちは。」

 

やがてそれにも慣れて来たようで、気も我も強い祖母との付き合い方を学んだそうな。

 

・・・・諦めたともいう。

 

そんなきつい当たりが劇的に変化することが起こります。

 

初孫となる私の誕生です。

 

祖母は私のことを物凄く可愛がってくれました。

 

そりゃあもう、妹が 「おばあがお兄ばっかり可愛がってずるい!!」 と怒ったほどです。

 

叔母も 「あんたばっかり可愛がって、他の孫がかわいそうやった・・・」

 

と言ったほどです。

 

でも、当の可愛がられていた本人にあまりその自覚が無かったというね。

 

それで、高校を卒業した私が早々に名古屋に出て行ってしまうと、

 

祖母の落胆は相当なものだったらしい。

 

後でそれを聞いて 「ふ~ん・・・」 程度にしか思わなかった私は冷たいな・・・

 

申し訳なかった。

 

私が結婚して実家に帰ると、祖母は嫁のことをしきりに構いたがりました。

 

祖母 「よ~めちゃん、食べとるか? 米やろうか? 野菜持ってきな! 餅あるぞ!」爆  笑

 

この 「よ~めちゃん」 の部分には独特のアクセントあり、今でも耳に残ってます。

 

それも、もう聞くことが出来なくなりました。

 

昭和元年生まれ

 

戦前、戦中、戦後、昭和、平成、令和 を生き抜き

 

趣味はカラオケでテレビにも出たことがあったな。

 

70歳の頃に90歳の人を介護の仕事をしてた。

 

子供2人、孫5人、曾孫11人。

 

96歳で老衰によって亡くなる。

 

本人がどう思っていたか判りませんが、身内からみてもいい人生を送ったのでは・・・

 

今頃は先に逝ってしまった祖父、父と一緒に居るのでしょう。

 

親より先に亡くなった父を叱っているかもです。

 

アヤ子おばあ の祭壇

こんな時期ですし、家族葬で小さな葬儀でした

 

長女・次女は県外と言うこともあって、今回は呼び戻しませんでした。

 

冥福を祈ってくれるように連絡だけして、お盆には仏壇に手を合わせてもらいましょう。

 

あまり近所に亡くなった連絡をしなかったのですが、

 

それでも、近しい方や近所の方が通夜には何人も弔問に訪れてくれました。

 

でも家族のほうが多いから、弔問の方のお出迎えが・・・・

 

入り口にこんな親戚一同の列が・・・

四番目が私、五番目が嫁

 

葬儀上スタッフ 「あの、お出迎えの圧が・・・・・」

 

叔母 「皆で感謝のお出迎えやで、いいんやて♪」

 

私 「壁になっとる・・・・」

 

妹 「どんな感じか、ちょっと写真撮るよ~!」

 

葬儀上スタッフ 「葬儀場に入れない・・・・」

 

って感じで撮った。

 

一番手前の叔母の小ささが目立つ。

 

 

私達夫婦と喪主の叔母

 

久しぶりに会ったら叔母があまりに小さかったので

 

ちょっと並んでみたらこんな感じだった!

 

これでも踵の高い靴履いて、それでも私の肩まで届いていない!

 

しかも、亡くなった祖母は叔母より更に小さい!

 

しっかり遺伝してますね。

 

祖母の祭壇前で親戚一同記念撮影

 

流石に90歳越えの葬儀ともなると余裕がありました。

 

正直、こちら側もある程度覚悟が出来てましたからね。

 

母 「これで嫁として最後の勤めが終わったわ、次は私やで宜しく!」ウインク

 

私 「ご苦労様、そう言っとる間はまだまだ大丈夫そうだな。」ニヒヒ

 

母 「え~、こないだ喜寿やったんやよ?」びっくり

 

私 「え~、おっかあ 96 まで後何年あると思っとるの? あと・・・18年か?」ウインク

 

母 「18・・・ 長!」笑い泣き

 

私 「アヤ子おばあと、どっちが曾孫の人数多いかな?」ニヤニヤ

 

通夜はそれなりに人がいましたが、葬儀は平日の昼間もあって親戚ばかりで、

 

終始和やかに静かに済みました。

 

 

アヤばあ、それじゃあ、またね!

 

私もいつか曾孫の人数を教えに行くから、気長に待っててくれ!

 

そうお別れを言いました。

 

 

そんな祖母の葬儀でした。