2025年1月のテーマ

「新年にもクリスティーを!」

 

第二回は、

「鏡は横にひび割れて」

アガサ・クリスティー 作、橋本福夫 訳、

早川クリスティー文庫 2004年発行

 

 

です。

 

私は、クリスティー作品の中でもこの作品はかなりの名作だと思っています。

実際、何度も読み返しています。

ただ、作品の出来のわりに知名度が不当に低いと感じていて、それが不満です。

 

まずはあらすじを。

ミス・マープルが暮らすセント・メアリ・ミード村にも時流に合わせて都会の波が押し寄せてきました。村のはずれには新興住宅地ができて村には若い人たちが増え、かつてバントリー大佐の邸宅だったゴシントン・ホールにはハリウッドの映画女優夫妻が越してきます。田舎の村に現れた有名女優マリーナ・グレッグに、住民たちは興味深々。そんな中、ゴシントン・ホールで催されたチャリティーのパーティで、招待客の女性が死んでしまいます。有名人が関係する事件に注目が集まりますが、マリーナの周辺で更なる殺人が起こります。

 

この作品は、ミス・マープル物の長編第8作目で1962年刊行です。

前回記事に書いた「書斎の死体」が1942年刊行なので、「書斎の死体」から20年後にセント・メアリ・ミード村を舞台とした物語を書いたことになります。

ちなみに今作の事件現場のゴシントン・ホールは「書斎の死体」の舞台でもありました。

 

 

実は、ミス・マープル物でセント・メアリ・ミード村が事件現場となる長編作品は「牧師館の殺人」「書斎の死体」「鏡は横にひび割れて」の三作品のみ。「牧師館の殺人」から12年後の発行が「書斎の死体」、更にその20年後が「鏡は横にひび割れて」になります。

この物語の冒頭にて、「牧師館の殺人」や「書斎の死体」で登場した人たちのことが触れられていて、歳月が村にもたらした変化についても紙数を尽くしてじっくりと描かれています。

クリスティーは作中での時間の経過と現実の時間の経過が同じだとは小説の中で書いていませんが、この三作品を読むと時間の経過というものが確かに感じられます。

特に、この「鏡は横にひび割れて」では、セント・メアリ・ミード村に近代化の波が押し寄せてきていることとともに、ミス・マープルが年を取って本当に"お年寄り"になったことが顕著です。

彼女の暮らしぶりもすっかり変わってしまい、かつてはメイドを置いていたのが、付き添い兼話相手の初老の女性と同居しており、家事手伝いに新興住宅地から若い主婦が通いで来ています。

膝が悪いため、好きだった庭仕事も禁じられ、一人で外出したくてもできず、付添婦のいない隙にこっそりと出かけるしかありません。しかしまだまだ頭脳の方は衰え知らず。事件を推理していくうちに、周囲の"年寄り扱い"のせいで失いかけていた自己肯定感を取り戻していく様子も垣間見られて、事件そのものの他にもミス・マープルの変化自体に読みどころがあると私は思います。

 

さてと、肝心のミステリーの方ですが、パーティの最中に死んでしまったヘザー・バドコックは新興住宅地に住み、ボランティアなどで精力的に活動する親切な女性でした。事件の起こったパーティ会場には、近隣の名士やチャリティーの関係者、ホスト役のマリーナに彼女の夫で映画監督のジェースン・ラッド、ジェースンの秘書のエラ・ジーリンスキー、俳優仲間で古い友達のローラ・ブルースターアードウィック・フェン、写真家に新聞記者、ゴシントン・ホールのかつての持ち主であるドリー・バントリー(バントリー夫人)など、大勢がいました。

事件の後、バントリー夫人は友達のミス・マープルにその時のことを話します。

その話の中で、事件が起こる少し前、招待客が続々と詰め掛けている最中に、マリーナ・グレッグが一瞬だけ奇妙な表情をした瞬間があったというのです。

その表情をバントリー夫人はテニスンの詩を引用して、

 

  鏡は横にひび割れぬ

  「ああ、呪いわが身に」と、

  シャロット姫は叫べり。

 

と表現します。

この小説のタイトルはまさしくここからとられているわけですが、作品を読んでいる最中も、読み終わった後も、このタイトルが作品の神髄を表していると感じました。秀逸というほかないタイトルです。

内容的にも、パーティの殺人を皮切りに事件が次々と起きていくので、テンポが良くて読者を飽きさせないと思います。

 

また、この作品は謎解きだけでなく、登場人物の心理描写が巧みだと思います。事件関係者たちが心の中で思っていることを細かく書いてあるというのではなく、彼らの会話の中や態度、行動で描くという、クリスティーお得意の手法で書かれているのです。

ちなみに、今作ではむしろミス・マープルが心の中で思っていることの方が率直に書いてありますが、これ以降に書かれたミス・マープル物では彼女自身の心の声がたくさん語られるようになっていると思います。この作品からその傾向が表れてきたと言ってもいいです。ミス・マープルが自身の"老い"を感じてどのように向き合っているのか、そういったことが描かれるようになっていきます。

 

ちょっと脱線してしまいましたが、物語が進むにつれて、華やかに見えていたハリウッドスターとその周囲の人々の素の姿が徐々にあらわになっていくのとともに、現代風の生活スタイルでミス・マープルの世界とは相容れないと思われていた新興住宅地の人々も結局のところ時代によって人間がそう変わるものではないという風に落ち着いていくので、私としては、立場や年代の違う人同士も相手のことを理解すれば親しみが持てるのだと感じられる作品です。

 

初読の方は、読み進むほどに犯人が誰なのか謎が深まっていくと思いますし、再読の方は、事件の陰に隠れた登場人物たちの心情を追いながら味わって楽しむことができると思います。おすすめいたします。(*^▽^*)