196 やぶのつぶやき

 衣食住について考える(3)

 人類の歴史は何百万年か前に、アフリカの熱帯雨林で始まったらしいのですが、猿や類人猿(チンパージ、ゴリラ、オランウータン)などと同じく樹上生活をしていたのです。そのまま、そこに留まっていれば、人類の進化はなかったでしょう。

 ところが、それまで繰り返して地球を襲っていた氷河期による寒冷と乾燥の気象が落ち着いて、哺乳動物や他の生物が生活できる範囲が、大きく広がりました。

ここから人類の登場です。特徴的なのは、樹上生活を離れ、長い脚による二足歩行で、開けた地上を速く広く移動して生活の場を広げました。

さらに、遺伝子的にはヒトとチンパージのDNAは、僅か2~3%しか違いがないのに、人類は道具や火を使うことを覚え、言葉を話すことで仲間とのコミュニケーションを密にして、社会生活を活発に営むようになりました。そして、およそ1万年前にアフリカを出て、生活の範囲を地球全体に広げていきました。

 

現在、地球上の人口は80億人を超えています。なぜ人類だけがこんなにも繁殖したのでしょうか? 

前回書いたように、何と言っても食料の確保です。農耕、牧畜、漁獲、養殖などの技術を発展させ、多くの仲間を養うのに必要な食料を維持したからです。

しかし、食料だけではありません。自然環境に適応し、子孫が繁栄するためには、災害(地震、津波、暴風、洪水、寒冷、熱波、乾燥)、外敵(侵略、野生獣の襲撃)、疾病(感染症、外傷)などから仲間を守り、安全・安心な生活が確保されなければなりません。それには「住」と「衣」と「医」も重大な必要事項です。

 

「住」に関しては、旧石器時代など初期までは、主として自然の洞窟が住居として利用されていました。しかし、次第に居住範囲が広がり、日本の場合は縄文・弥生時代には、平地の地面に縦穴を掘り、周りに木材の柱を立て、屋根をかけた竪穴住居を構えるようになりました。 

家屋の居住環境や耐久年限に関しては、その土地で得られる建築資材によって、大きな違いが見られます。ギリシャ、イタリア、スペインなどヨーロッパ、特に地中海沿岸では石材を積み重ねた建造物が多く、長く風雨に耐えて多くが保存されています。一方、日本では木造建築が主であるため、耐用年限を過ぎると自壊し、また地震や火災などの災害により多くが失われていきました。 

 

いずれにしても、住居が定まることによって、まず社会構成の最小単位である家族(夫婦、親子、兄弟姉妹)、という血縁で結ばれた小集団が発生しました。更に、その親族縁者が寄り添って小集落がつくられ、集団が大きくなるに従って、村落や町が形成されました。

この共同体がもたらした価値は、災害や外敵から仲間を守るということが第一でしたが、それだけではありません。

多数の人々が平和で安心・安全に集団生活を維持するために必要な決まりごと(規律)が、自ずと発生しました。また、共同生活をする多様で個性的な人々(老若男女)が増えるに従って、共通の言語での情報伝達が密に交わされ、コミュニケーション能力が飛躍的に発展しました。この結果として集団内に精神的な感情交流が発生し、娯楽としての音楽(歌、楽器)や踊りなどの文化・芸術活動が行われるように成りました。

 

更に、ある一定以上の集団になると、迷える子羊の群れを導くために、思慮深い?指導力のある人物が突如として出現します。そして、子羊たちを広場、教会、寺院、モスクなどに集めて、己の信じるところの主義・主張や思想・理念を語り、自分の支配下に治めようとします。或いは、従順で無知な羊たちを、幸せにするという大義名分の下に、宗教的な諸々の教義を諭し、象徴的な超能力者(神)を信仰の対象とするように誘導します。

こうした指導者に洗脳されて、一定の規範に閉じ込められた羊たちは、他の同じように異なった思想で洗脳された集団との間に軋轢を生じ、将来に争いの火種を作り出すことになります。これが現在パレスチナやイスラエルで起こっている、政治上や宗教上の争いの原因の1つになっていると思います。

 

20世紀になると、より安全でより快適な住居が求められるようになりました。特に自然災害(風水害、地震津波・・・)の多い日本では、堅牢な鉄筋コンクリート製の集合住宅に、ライフ・ライン(電気、ガス、上下水道)が装備されたマンションが若いカップルたちの憧れの住宅になりました。更にこれが、21世紀になると高層のタワー・マンションとなったのです。

小生も、医者になりたての医局時代に、7階建てのマンションと称する集合住宅に居を構えた経験があります。「もったいない」と言う人がいるかも知れませんが、小生には何とも居心地の悪い住まいで、決して安住の空間ではありませんでした。

元々が高所恐怖症で、高い所は大の苦手です。その上、良き先輩・同僚に恵まれて、有意義な医局生活が送れたので、その3年間は「自宅に帰りたくない症候群」になってしまいました。

 

人間は直立二足歩行で生活するのが、他の動物との大きな違いですし、泳ごうと思えば、魚ほどではなくても自力で泳ぐことは出来ます。従って、水上での生活は可能であり、容認出来ます。でもどうでしょう、人間は自力で鳥のように空を飛ぶことが出来ますか?基本不可能です! 小生は飛行機も大の苦手です。非科学的な理屈かも知れませんが、金属の塊が何時間も空を飛ぶなんて不自然なことです。だから時々墜落事故が起きるのです。

汐留のタワー・マンション26階にお住いだった先輩の話では、東日本大震災の時の揺れ幅は想定外で、生きた心地がしなかったそうです。 人間は樹上生活から地面に降りて、「足が地に着いて」こそ安心・安全な生活が出来るように適応したのです。平地なのに、高い所での宙ぶらりんな生活なんて不自然でしょう。医学的にも体に良くないと思います。高層階に住む妊婦さんの流産率が高いのは、エビデンスがあるそうです。そのためかどうか不明ですが、パリでは6階建て以上の高層マンションは建設許可が下りないそうです。

また集合住宅というのにも、抵抗があります。人も群れる動物ではありますが、蜂や蟻と同類にされたくはありません。

狭い日本では、土地利用の面から考えれば、確かに、集合住宅や高層マンションは効率的かも知れません。しかし以前、関東地方を襲った大型台風で、小生が勤めていた川崎市の武蔵小杉にある大学病院近くのタワー・マンションでは、一階が冠水しただけで30数階までのライフラインが全てストップして、大勢の住民が避難する事態が起きました。 これから先も、限られた狭い土地に密集して多くの人が生活していけば、事故や災害時に、想定外の被害が起きる可能性は大です。

小生の身内にも、築40年を過ぎたマンションに住んでいる後期高齢者がいます。鉄筋コンクリート作りで堅牢とは言え、老朽化による修理・維持・管理が問題のようです。更に、住人自身の高齢化によるトラブル(要介護、孤独化)も発生しています。更に、やっかいな法律上の「区分所有権」という特殊な事情もあって、住民間のルールが時代の趨勢に、応じられなくなって来ているようです。

 

「衣」の話に移ります。 多くの哺乳動物は、皮膚の付属器として、全身に体毛を持っています。 これによって物理的外力や寒冷から体を保護しています。動物の中には、人間がファッションとして衣服を着るように、装飾器官(特に雄が雌を引き付けるため)としての働きや、接触する外界の状況を探知する触覚器官としての働きも持っています。 

 

ヒトの体毛は、生毛(うぶげ)と硬毛に分けられます。生毛(産毛)は全身に生えていますが、頭部は別として、陰部、腋下などの部位では、第二次性徴の発達に伴って硬毛に変わります。この特別な部位でのみ、硬毛に変わる意味や役割は、詳しくは分かっていないようです。いずれにしても硬毛は、一般に男性の方が女性より濃く、人種差もあって、白人の方が黒人や黄色人種より濃い傾向にあります。

人の皮膚にも主に、外力から体を保護する働きと、体温・水分の調節作用があります。 従って哺乳動物の全身を被う厚い体毛は、無毛に近いヒトよりも優位だと思っていました。

人は脳を発達させて、色々なものを創り出し、便利に活用するようになりました。例えば、衣服。更に、火をコントロールすることにより暖をとり、現代ではエアコンを発明して冷房まで自由自在です。 

哺乳動物の体毛は、低温環境での保温という点に関しては極めて優れています。しかし現在では逆に、熱帯地方や温帯地方での夏季の炎天下では、逆に体温を下げる冷却作用が必要なのです。高温環境では体毛は却って邪魔なものです。

今や、化石燃料の大量消費によって大気中の二酸化炭素が上昇し、地球全体の温暖化が進んでいます。その上、ヒトで大きく進化した脳は、高温に極めて弱く、夏季の直射日光下では、たちまち熱中症になってしまいます。 

最近では、人類だけが地球上で大繁殖出来たのは、寒冷環境に順応したからではなくて、むしろ高温環境を調節する術を獲得したからという説の方が有力です。要するに人の体温調節に関しては、体毛がないのと二足歩行による移動が、優位に作用しているということです。

小生80歳を過ぎてから健康のため、雨が降っていなければ毎朝、近くの公園に散歩に行きます。今はペットブームで、犬を散歩させている人に多く出会います。「前とは違うな」と先ず気が付くのは、可哀そうに犬どもが競って飾った衣装を着せられているのです。冬場は多少意味があるかも知れませんが、他の季節では有難迷惑でしょう。 犬の冷却調節は、足の裏からの発汗とベロを口の外に大きく出してハアハア呼気で放熱するだけです。更に四足歩行では、体が地面に接近していて、日光の反射熱をもろに浴びてしまうのです。一方、寒い季節では、冬毛が生えて温暖調節は自分で十分に対応出来ています。衣装は飼い主の自己満足で、有難迷惑なのです。

 

ペット犬でさえこぞって着飾る時代です。今や、衣服は人にとっては、単に体温調節と外力から体を守るためだけでなく、ファッションという大きな役割があります。動物の場合一般に雌よりも雄の方が、鮮やかに着飾っていますが、人では圧倒的に女性の方がアパレル界を牛耳っています。

この現象は、理由を付ければいろいろあって、興味深いところですが、小生この分野に関しては全く不勉強なので、これ以上掘り下げないことにしておきます。

次は「医」についてコメントします。

195 やぶのつぶやき

 衣食住について考える(2)

 長年、医師の端くれとして、医療に携わってきた身なので、最近の日本人の食料事情が、いささか気がかりです。 

前回、書いたように日本の食料自給率は、先進国では最低水準です。原因は何でしょう? 少し調べて見ました。 

 

当然、日本でも原始時代~古代は、狩猟や木の実・果実・山菜など自然界から手に入るものは、何でも食べていました。しかし、食糧として蓄える手段や知恵がなかったため、気温や利水などの条件の恵まれた土地で、限られた人口しか養うことが出来ませんでした。

やがて農耕が始まり、集団生活をするようになって、縄文~弥生時代では主食は、稲作も始まってはいましたが、雑穀や芋類が主として食べられていました。

中世~近世になり、効率の良い水田稲作文化がより発展し、やがてこれが日本の農業の主流となりました。 

室町~戦国時代に人口が徐々に増え、貧富の差が現れ、領主たちは広大な領地(知行)の経済的価値を適切に把握する必要が起きて来ました。そこで現れたのが知恵者の豊臣秀吉で、土地の価値を分かりやすい石高制(玄米の生産量)で表すように定めたのです。これにより、地方の豪農の武装化や豪族達による下克上が抑えられ(兵農分離)、これに続く江戸時代の長い天下泰平の文化がもたらされたのです。                                            

秀吉の時代(安土桃山時代)は、まさに時代の変わり目で、庶民の食習慣も1日2食から3食になりました。しかし一般の町人や農民の主食は、麦、粟(あわ)、稗(ひえ)といった雑穀類に菜を炊き込んだ雑菜飯でした。 一方、武士や公家は半白米や玄米を、従来の蒸す強米(こわめし)から炊く姫飯(ひめいい)にして食するように変わり、やがて江戸時代には庶民でも炊いた米飯を食するようになりました。

 

少なくとも江戸時代~明治維新(人口3千万人位)までは、食料を自給自足していたのは確かです。 明治・大正・昭和初期には、欧米の文化が盛んに輸入され、料理の面でも影響は受けましたが、従来の和食文化は、大きく変わることはありませんでした。

しかし、「富国強兵」のための人口増加で、食糧事情は厳しくなりつつあったようです。小生は1940年(昭和15年1月)生まれで、一応戦前生まれです。日本橋下町の商人の小倅ですが、5人兄弟の長男のため、戦況が厳しくなった昭和19年に、岐阜県の片田舎(土岐郡駄知村)に住む祖父母のもとに、独りだけ疎開させられました。駄知村は瀬戸物の原料になる陶土を産するところで、土地が肥えてなく農作物を耕作するのには適していませんでした。したがって、東京に残った兄弟姉妹たちより却って食糧事情が悪く、それこそサツマイモの蔓や葉まで食べる「ひもじい思い」を体験しました。育ち盛りの時期で年がら年中、祖母に「お腹空いた~、何か食べ物ない~」とねだって困らせたらしい。後に成人してからですが、祖母は「本当に何もなくて、可哀そうな思いをさせた」と述懐していました。それでも小生を可愛がってくれた祖母は、うらなりの小さなジャガイモを串に刺して茹で味噌を塗って「団子さんだよ」と工夫し、苦手な青臭いヤギの乳に蜂蜜を垂らして飲みやすくし、空腹を満たしてくれました。これらの記憶は後々、幾度となく懐かしく思い出しました。

 

終戦直後(昭和20~30年)の食糧事情の悪い時に、小生も東京で小・中学生として、「給食」での進駐軍支給の脱脂粉乳とコッペパンを「うまい?」と感じて育った年代です。実際にあの頃の児童にとっては、「給食」は成長に必要な栄養の、大事な補給源だったのは間違いありません。

今の日本では「腹が減って食べたくても、実際に食べる物がない」という本当の意味での「ひもじい思い(飢餓)」を経験した若者は、特別な例外を除いていないと思います。

むしろ逆で、飽食・過食の時代です。食べ過ぎによる肥満、糖尿病、心臓病などの成人病が問題になっています。多様性の時代で、料理の面でも欧米化が進み、全体に贅沢にもなったのです。 そのため主食では、米飯が減り、パンや麺類の需要が増え、小麦などの粉もの材料の輸入が急増したのは確かです。しかし並行して副食の、肉・魚・野菜・果物・各種飲料も増えて、より一層、食料自給率を低下させています。

 

小生が、子供の頃から好きな相撲は日本の国技とされ、古くからの儀式・風習が数多く残されています。そのため相撲界でしか通用しない、「力士社会」独特の生活習慣が営まれています。その代表的なものに力士の食事があります。「多く食べて体重を増やす」ことが仕事の一部になっているのです。

そのため、一般の人々とはかけ離れた食習慣があります。朝食は抜きで1日2食です。主食は米飯で「どんぶり」で5~6杯が普通です。副食は「ちゃんこ」と言って、力士の所属する部屋ごとに多少の違いはあるようですが、多くは魚貝類・肉(昔は骨付き鶏肉が多かった)・野菜・豆腐などをごっちゃ煮にして、ポン酢醬油をつけて「ちり鍋風」に食べるのが通常です。大雑把な料理ですが、食べやすく栄養満点でカロリーも高いと思われます。調理に特別な技術がいらないので、「ちゃんこ番」といって下位力士や新弟子が交代で担当するのが昔からの習わしです。食事は、上位力士から下位力士へと順に食べて行くので、序の口などの下位力士が食べる頃には、中身(具)はほとんどなくなり、どんぶり飯に汁をぶっかけて、腹に流し込むのが通例のようです。

この食習慣に順応し、連日の厳しい稽古に耐え抜いて実力をつけ、単純だが極めて過酷な試練で淘汰された力士のみが、番付を上がって行く世界なのです。

稽古内容も、相撲界には伝統的に踏襲されてきた四股(しこ)、鉄砲(てっぽう)、股割(またわり)などの方法が、厳しく順守されています。

特に食事に関しては、親方衆には体重が増えなければ、相撲は強くならないという暗黙の信念があるようです。  

医学的に見れば、「こうゆう食生活を続ければ、肥満や糖尿病になるぞ!」と言う実験をしているようなものです。

肥満度を表す指数に【BMI=体重Kg/身長㎡】があります。成人男性では24前後(BMI=60Kg/1.65㎡)が、最も成人病の罹患率が少ないと実証されています。

力士では最もスリムに見える炎鵬ですら33,バランスが良く見える白鵬が42,巨漢の逸ノ城が60と全て異常値です。BMI>30が高度肥満なので、力士は全員が高度肥満です。

当然その結果、一般成人男性の糖尿病罹患率が3~4%のところ、現役力士で10~20%、親方衆では50~60%と極めて高率です。 平均寿命で見ても、日本人男性が約80歳のところ、幕内まで昇進した力士は62~63歳、歴代の横綱では58・6歳です。

 つい最近、初の外国人横綱である第64代横綱の曙太郎さんが、54歳で心不全のため急逝しました。一時期、若乃花・貴乃花兄弟と共に相撲ブームを起こした好人物です。現役時代のBMIは55でした。ファンだった一人として、心からご冥福をお祈りします。

 

 原則として、人の体は食べた物で出来ています。その食べ物が偏っていれば、偏った体が出来るのは道理です。

 相撲界は特殊な例外ですが、最近は、一般社会でも多くの若者達が飽食(スウィーツやスナックetc.)の上に、食事の欧米化(肉食)で、欧米型肥満と成人病が急増しています。

肥満には皮下脂肪型肥満と内臓脂肪型肥満があります。

●皮下脂肪型肥満:俗に洋ナシ型肥満とも言い、主に下半身に脂肪が蓄積する。女性に多い。

●内臓脂肪型肥満:主に腹部・胸部など上半身に脂肪が付き、メタボリックシンドロームと言い、成人病の原因となり要注意です。男性に多い。

 

  昭和が終わる頃から、わが国でもステーキやハンバーガーを筆頭とし、焼肉チェーンなどの肉食文化が浸透して来ました。そのため成人の循環器疾患(狭心症、心筋梗塞、高血圧)が急増し、健康上の面から「和食」が見直されるようになりました。  

 

「和食」に明確な定義はないようですが、一般には日本の自然環境で育まれてきた魚介や野菜などの材料を、伝統的な方法で調理した食膳です。 基本的には、一汁三菜など米飯と汁物、3種の「おかず」(魚やてんぷらなど主菜1種と野菜など副菜2種)を組み合わせた料理です。この「和食」は、2013年には日本人の伝統的食文化として、ユネスコ世界無形文化遺産に登録されました。 動物性脂肪が少ないので、循環器疾患の予防には好都合で、ブームとなったようです。

 

 

日本の食料のことで、もう一つ気がかりなことがあります。コロナ前でしたが、北海道にゴルフを兼ねて10名ほどで観光旅行をしました。当時、インバウンドで至る所に中国人観光客が大挙して来日していました。 苫小牧市近くの大きなドライブインで、たまたま彼らの団体に遭遇しました。我々は、その猛烈な食欲に、すっかり気おされてしまいました。「いけす」にはかなりの数の活魚が確保されていて、指定するとその魚を料理して出してくれるシステムなのですが、我々が「もたもた」している間に、「いけす」は空っぽになってしまいました。

経済事情が好調で、金に物を言わせて「爆買い」「爆食い」をして、従来は知らないために食べていなかった美味の「マグロのトロ」や、高くて手が出なかった「黒毛和牛のステーキ」などの料理に触発されて、大挙して来日し漁って行くため、日本中の旨いものが枯渇を来すのではと心配です。

小生は「うな重」が昔から好物です。過日、ゆうに30年以上は贔屓にしている老舗店に行ったときに、「シラス・ウナギ」が不漁で養殖業者が困っている話になりました。ウナギの養殖は盛んですが、実は卵から孵化する完全養殖ではないのです。孵化した幼魚が川へ遡上する前に捕獲して、これを養殖しているのです。だから「シラス・ウナギ」が獲れなければ、養殖は出来ないのです。

先日、TVで「ウナギの完全養殖」に初めて成功したと報道されていましたが、まだまだ軌道の乗るのには解決しなければならない問題が多々あるそうで、10年以上先になる予測でした。それまでは何とか、天ぷら、寿司、すき焼きなどと同じように、伝統の「うな重」の旨さを、容易に外国人に教えてはいけません。たちまちマグロやサンマのように、獲れなくなってしまいますよ~。      つづく

 

194 やぶのつぶやき

  衣食住について考える(1)

 いずれも人の生活の基本となる条件です。 この3つの条件にランク付けをするとしたら、どうでしょう? 

 

人に限らず、生き物は食べなければ命をつなぐことは出来ません。従って、小生は「食」を最も大切な条件に挙げます。このことに関しては、多くの人も異論がないと思います。 

自然界には「弱肉強食」という言葉があるように、「食」は生態系が成り立っている大原則です。その頂点に立つ人類も例外ではなく、有史以前から現代まで、「食」確保のため、他の生き物とは勿論、人類同士の争いもし続けて来ました。実際に「多くの食」を確保した種ほど、多くの子孫を残すことが出来ました。人類の歴史は「食」を確保するための「争いの歴史」とも言えます。

 

ただ、人類が他の動物と違うところは、単に「生きるため」だけに食べるのではなく、食を「味わって楽しむ」ようになったことです。火の扱いを知り、調理・加工することを覚え、栄養面だけでなく、より美味しく、美しく盛り付けることで、1つの文化にまで発展させたことです。

 

例えば、「京の会席料理は三度味わえ」といいます。まずは「目で味わえ」です。料理が出たらいきなり箸を付けないで、2~3分間は、修行を積んだ板前が鮮やかな包丁さばきで形を創り、色彩豊かにこしらえた膳の出来栄えを、じっくり眺めて「味わう」のです。

 

次いで「鼻で味わえ」です。ワインのソムリエや日本酒の利き酒をする人など、特別に味覚・嗅覚の優れた人もいますが、嗅覚に関して言えば、麻薬犬の嗅覚はヒトの約1000倍の感度だそうで、動物と比べるととても敵いません。しかし通常の人でもウナギやサンマを焼く煙の匂いには、食欲をそそられます。コーヒー豆を焙り、お茶を煎じる香りを好ましく感じる人は多いと思います。 世界各地の料理にもそれぞれ独自の香辛料やスパイスの香りが施されています。 とくに日本料理の板前さんには、煮物や汁物から立つ微妙な「だしの香り」に、こだわりがあるようです。

 

そして最後に「口(舌)で味わえ」です。しかし、食べ物の好みには個人差があります。 舌の表面には味蕾という、味を感じる器官があります。従来の「塩っぱい、酸っぱい、甘い、苦い」の4種類に最近は、第5の味覚として「旨み」が加わったそうです。医学的には、この味蕾で感知した化学刺激が、12対ある脳神経の一つである舌咽神経を介して、大脳皮質に伝えられ、「旨いとか不味い」という味として、個々人が知覚すると言うことです。

この5つの味覚が微妙に混り融合して、個々人の好みとなるので、生い立ちや年齢や会食時の雰囲気などの条件により、各人に差が現れるのは当然だと思います。 

小生の経験でも、札幌在住の70代のゴルフ仲間は、漁師の次男坊に生まれ、子供の頃から毎日魚ばかり食べさせられていたので魚を苦手とし、会食すると豪華な海鮮料理には手を付けず、ひたすらジンギスカン鍋を好物にしていました。 

また地元の自称グルメのマダムは、ランチ巡りをして「穴場の店を見つけたわよ」と自慢するので、彼女の勧める店へ期待して行って見ると、案外だったことが何度もあります。どうも自称グルメの舌というのは、当てになりません。

 また有名なホテルの贅を尽くしたフルコース料理でも、義理でいやいや出席させられた場合や、退屈なスピーチの長い会席では何を食べたか記憶にないことがあります。そうかと思えば、腹を空かせていた時に、たまたま入った町中華で食べたラーメンや餃子が、めちゃくちゃ旨かった経験もあります。  

かように、味覚には多様な面があるので、基本的には「食事は楽しく」するものなのです

 

でも、最近の巷の食事に対するトレンドは、行き過ぎだと思いませんか? TVのチャンネルをひねると、いつもどこかで料理番組をやっています。それだけ現代人は「楽しむ食」への関心が高く、結果として視聴率稼ぎの番組も多いのでしょう。 

日本に限って言えば、各地の名物料理やそれを食べさせる有名店を、芸能人やグルメと称される著名人が訪れて、これでもかこれでもかと、手の込んだ豪華な料理を紹介し放映しています。ひとたびTVやネットで紹介された店は、たちまち有名になって、自称グルメやツアーの外人客が押し寄せ、列をなして賑わっています。更に、その客達の多くが、料理をスマホに撮ってSNSに乗せるから、際限なく情報は広がります。

近頃は、これらの料理番組を見ていて、正直「これで良いのか?」と感じます。 世界では、異常気象による干ばつや洪水、悲惨な戦争、為政者の圧政などのため、今日・明日の食事にもあり付けない人々が「わんさ」といるのが現実です。 小生、運命論者ではないですが、つくづく「日本は平和だな」「日本人に生まれて良かったな」と感じるのと同時に、難民の「ガリガリに痩せて、目ばかり大きな子供たち」の映像を見ると、ひどく世の矛盾を覚えます。

 

ウクライナやガザに無関心でいてはいけないのですが、ここでは複雑な世界情勢と切り離して、今の広い意味での日本の「食」に対する現状をcoolに再考してみたいと思います。 

 

日本人は、世界中から各国の料理を積極的に取り込んで、本場の特色を残しながら、創意・工夫と飽くなき探究心で、日本人の味覚に合うように巧妙にアレンジし、それらを違和感なく受け入れて広めている料理が数多くあります。

更に素晴らしいのは、それらを進歩した冷凍・保存技術と、流通の発達によって、何時でも何処でも食べられることです。特にコンビニやチェーン店の発展で、食の大衆化、インスタント化が急速に進んでいます。 

先日、日本人が好む「食べ物」のベストテンをTVで放映していました。ほぼ小生が予測していた通りでした。寿司、焼き肉、ラーメンがベストスリーで、次いで天丼、かつ丼、親子丼、牛丼、海鮮丼、などの丼物や、餃子、から揚げ、バーガー、カレー、スパゲッティなど庶民的な料理が続き、最近は「おにぎり」がブームだそうです。少々高価ですが、すき焼き、しゃぶしゃぶ、ステーキ、うな重なども上位に入っていました。 小生は下町育ちのせいか、江戸時代の屋台料理から発展した、庶民の「食べ物」である寿司、蕎麦(そば)、天ぷらが好物です。

 

話題が、がらりと変わりますが、最近「食」に関して気がかりなことがあります。1つは日本の食料自給率が低いことです。

食料自給率は、学問的には結構ややここしいのですが、カロリー・ベース(熱量)で表すのが分かりやすいと思います。 

食料自給率=国産の供給熱量/実際に必要な供給熱量 即ち

日本人の自給率=1日850Kcal/1日2260Kcal=38%

  長期的に減少傾向、原因は主食の米飯⬇でパン,麵⬆です、

38%というのは先進国では最低水準です。 例えば国別では

●カナダ221%、オーストラリア173%、アメリカ115%・・・

都道府県別で見ると稲作県が上位、大都市圏は下位です。

●北海道223%、秋田204%、山形147%、新潟109%・・・

東京0%、大阪1%、神奈川2%、愛知10%…沖縄32%・・・

 

昨年の夏に大学入学以来付き合っていた親友を亡くしました。彼は佐渡ヶ島出身で、何代も続く医院を継いでいました。学生時代に彼の実家に遊びに行ってびっくり仰天しました。医院の後ろに母屋があり、回廊で「離れ」に続き、その裏は背の高い松林が浜辺まで緩やかに連なっていました。左右には砂浜が拡がり、海は遠浅で素晴らしい景勝地でした。「離れ」にはかって武者小路実篤や有吉佐和子などの作家が、すっかり気に入って予定を越えて1~2か月も逗留したそうです。

このような環境で育った彼の性格は、「然もありなん」と思われるもので、些事にこだわらない大らかなものでした。

どうして自給自足の話と佐渡が、結び付くかというと、彼の佐渡自慢は、変わっていて景勝地や魚の旨さや朱鷺(トキ)などの話しではなく、「佐渡ヶ島は自給自足が出来る」が持論でした。だから食料自給の話になると彼の顔が浮かぶのです。   

彼の説明では、佐渡は平地が少ないが意外と面積は広く(857㎢)、沖縄本島(1185㎢)の3/4です。それに反して人口は6~7万人で、沖縄は140万人で1/20です。食料自給率は人口密度が高くなるほど、悪くなるのです。沖縄本島は30%以下だが、佐渡は100%を優に超えているそうです。

 

それにしても日本の自給率が38%というのは大問題です。

土地が狭く、それに比して人口が多ければ当然の結果ですが、今の日本では、少子高齢化による人口減少の方が、国力低下に繋がると深刻に問題視されています。 

世界的に「人口増加=国力増強」という考えが、強権的な為政者にはあるようです。日本では、約260年間の長い太平の江戸時代が、「黒船到来」で鎖国を解かれ、欧米各国の強権に曝されました。明治維新政府は、「清王朝」の様になってはいけないと、富国強兵に努め「産めよ増やせよ」政策で人口増加を図りました。結果的には、これが後々の太平洋戦争にまで繋がったのです。

不自然に人口が増えれば、これを養うための食料が必要になります。このため強権・武力によって現状変更を計り、満州や東南アジア・太平洋諸国に出兵侵略をしたのです。

今、パレスチナ、北アフリカ、中南米など低開発国で人口急増が起きて、不法移民や難民問題が起きています。しかしこれは、工業生産や経済が発展して人口が増えたのとは、ちょっと事情が違うと思います。  

●一番の原因は、先進国での多量の化石燃料消費によってCo2が上昇したことです。これにより地球規模の温暖化が起こり、世界各地で異常気象(干ばつ、洪水、山火事・・・)が発生し、農耕不能となり、食料不足で生きて行けないため、不法移民や難民が多発したのです。

●もう一つの要因は、ITで情報化時代になり、例外を除けばかなりの低開発国でも、簡単に他国の民の生活状況を知ることが出来ます。豊かな生活をしている国が、他にあることが知られています。 それに反して、もともと貧しい上に、干ばつや洪水に見舞われた国では、生きるために必要な最低限の食料すら得られません。更に最悪なのは、そんな環境でも避妊をしないで、育てられない子どもをどんどん産んで、なおさら状況を悪くしています。とんでもない悲劇ですが、命を賭して食べ物のある豊かな国へ向かって移動するのは、自然の成り行きでしょう。 根本は教育の問題でしょうが、宗教なども絡むので解決は難しいと思います。

 

 

どんどん話が移ってしまいますが、次に気になるのは、長い期間、医師として働いて来たので、過食による成人病、特に糖尿病と肥満です。   つづく

 

 

193 やぶのつぶやき

 我が医局(番外編 船医の冒険記 7)

 12月3日 午後にサードオフィサー、セーラーと市内見物に出かけました。熱帯性気候で蒸し暑く、不快指数はかなり高い。繁華街の「新世界」に行くつもりでタクシーを呼びましたが、「ぼられるから注意」といわれていたので、体が大きく、顔がいかついサードオフィサーが値切ると、驚くなかれ!たちまち言い値の半分になった。 街では日本で5~6年前に流行った、小林旭、橋幸夫、吉永小百合などの歌のテープやブロマイドが売られていて、若者たちですごく賑わっていました。客は中華系の人が多いが、インド系やマレーシア系の人々も結構多く混じっていて、香港とは違ったインターナショナルな感じがしましした。帰りに港近くのシーメンズ・クラブ(船員センター)に寄ったが、今までのクラブの中では一番きれいで落ち着けました。

 夜再び、事務長、1等航海士、局長と昨夜と同じ「チャン料理」店へ出かけ、連日の来店に店主が大いに感激して、付きっ切りで存分のサービスをしてくれました。 少し神経質な局長が、料理にハエが集るのを手で追っ払っていると、店主が「マスター!ハエはそんなに沢山は食べないから心配いらないよ」らしきことを言ったので皆で大笑いしました。

 店のカンバンまで粘っていたら、彼らの夜食に付き合わされた。彼らの食べているものには驚かされました。豚の脂身をきし麺のように薄く幅広に切って、これに小エビや野菜その他を混ぜて炒めたものを、うどんをすするように食べていました。小生にも「食べて見たら」と勧められたが、さすがに箸が出ませんでした。

 

代理店からうれしいニュースをもらいました。通常、船医は日本の第一寄港地(名古屋港)で下船するのが契約ですが、船長の口添えもあり、本社から横浜港までの乗船許可が下りたという連絡があったそうです。名古屋から横浜まではドクターでなく、客船扱いで乗船料タダのお客様だそうです。これはみやげ物の荷物が多く、実家から横浜まで自動車で迎えに来てもらえるので、大いに助かりました。

 もう一つ良いニュースが入りました。3等航海士が2等航海士に昇進しました。彼のウオッチが終わってから、深夜に祝いということで軽く一杯やりましたが、これが殊のほか効いてしまい、途中でバタンキューと寝てしまいました。

 

 12月5日 あと8日で日本とのこと。シンガポールに郵送されていた朝日新聞を読んでいる内に、1日も早く日本に帰りたくなった。さっそく下船の際、検疫用(動植物検疫:象牙、水牛の角…)の許可届け書を作るため、床一ぱいにみやげ物を並べて漏れがないようにリストアップしました。 

 

12月6日 「冬の南シナ海はシケるぞ」と脅かされていましたが、今日は穏やかなものです。ただ風が表(Against)のため船足が出なくて、ブリッジに居てもじれったかった。

 ベテランのクオーターマスターがヴァイス・ヴァロトの法則を教えてくれました。「風を背中に受けて両手を広げ、左手の前方が低気圧で、右手の後方が高気圧になる」というものだ。

 もう一つ月夜の場合に、周りの船が良く見えるのは月のある方で、反対方向は確かに水平線もぼやけて見にくい。それが昼間の太陽下では逆になる。これは当たり前だと思う。

  

 12月8日 朝からシケ、だが風が真表のためピッチング(縦揺れ)はひどいが、ローチング(横揺れ)が少ないため、それほど体には応えませんでした。しかし、船足が10ノット以下に落ちたままで、シンガポールを出てからイライラしっぱなしです。

 本船の次航予定はニューヨーク航路だそうです。オフィサー連は「冬のニューヨーク航路の天候は最低だ」と盛んに強調しています。ともかく、冬期北太平洋のシケは凄いらしい。船乗り生活10年以上のセーラーでも不安になるくらい激しく揺れるそうです。しかも、気温の変化が激しくて、パナマ運河では真夏の暑さなのに、4日間ほどでニューヨークは零下15℃ぐらいにまで下がってしまうそうです。 セカンド・オフィサーの経験では、横浜港を出港して一度も太陽を見ることなしに,20日後に朝起きたらサンフランシスコ港沖に着いていたことがあるそうです。従って体調の維持管理には気を遣うらしい。

 

 12月9日 台湾の南端(鵞鑾鼻)に至る。 シケ状態の中、近海のルソン島沖からSOSが入り、船長以下騒然となるが、他の外国船が救助に向かったとの連絡が入り、全員ホッとして、本船はそのまま一路日本への航路を進みました。

ラジオには台湾・沖縄の放送に交じって、かすかに日本本土の放送も聞こえるようになりました。

 シンガポールを出て以来、気温の低下と伴に急にセーラーの子猿が元気を無くし、鼻水を垂らして咳をするようになり、抗生剤の注射などをしましたが、今朝、部屋の隅で死んでいたそうです。船員一同で供養の上、水葬にして弔いました。

 

 12月10日 今航海で最大のシケとなりました。アフリカの東海岸でもシケましたが、食事の時にテーブルクロスに水を吹いて湿らせ、食器が滑らないようにしました。だが今回は食器を手に持ったままでないと吹っ飛んでしまう程でした。

 2等航海士は、この大波の高さは30m以上で、波長は100mを超えるだろうと推定していました。 本船は全長156m、幅19.6mあるのだが、船全体がこの波にそっくり乗っかてしまう。この状態を「木の葉のように」と表現するのでしょう。

舳先を波に突っ込み、これをピッチング(縦揺れ)で跳ね上げるので、青波がブリッジのフロントガラスまで、ものすごい音を立てて打ち付け、回転式のワイパーが全く用を成しません。 ローリング(横揺れ)も半端でなく、船体が20度以上も傾き、そのまま復元しないで、転覆してしまうのではとハラハラしました。これが典型的な冬期東シナ海のNorth-West Monsoonだそうです。極端に船足が落ちてしまったので、日本への到着は1日遅れる予測だそうです。

 

12月11日 午前中は昨日ほどではないが、シケは続いて依然として船足は伸びません。昨夜の中に沖縄本島は通過していました。 4-8の1等航海士のウォッチ中は、まず臥蛇島が見え、引き続いて次々と島影が見え始め本土近しという気がしました。 8-0の3等航海士のウォッチ中では、白煙を噴く活火山を持つ口永良部島を横に見ながら、屋久島、種子島を次々と通過し、遂に九州最南端の佐多岬に到達しました。種子島との間の大隅海峡は、黒潮の流れが強く船足が延びて、本船にしてはめずらしく18ノット以上も出ました。

小生の帰国を歓迎してくれるかのように、行く手の空には大きな虹の橋が架かっていました。しかし、気温はどんどん下がって、午後には8℃となり暖房が入りました。

 

12月12日 素晴らしい天気だ。海も穏やかで、船足も軽く16~17ノットは出ていた。朝から望遠鏡片手にブリッジに居座って、次々と現れる沿岸をオフィサーの説明を聞きながらウォッチングした。 Am10:00前には室戸岬が見えて来ました。 甲板の方でも荷揚げのための準備で、デリック・クレーン(荷を水平・垂直に移動させる重機)を設置していました。

昼食を済ませてからも直ぐにブリッジに戻り、2等航海士のもと汽笛のテストをやらしてもらった。ずしんと下っ腹に響く爽快な音でした。さらにクオーターマスターの指導で難しい進路測量(bearing)も何回かやって見ました。

紀伊半島の先端の潮岬から熊野灘に沿って、那智勝浦町、新宮市、熊野市、尾鷲市・・・の沖を進みました。日本の沿岸は変化に富んでいて、背景の山々も味わい深い趣です。うす暗くなって志摩半島の大王崎を回って、いよいよ伊勢湾に向かいました。

レーダーで見ると驚くほど多くの船数が見られました。多くは漁船とのことです。暗くなったPm9:00頃に、三島由紀夫の小説「潮騒」で有名な「神島」の灯台と、渥美半島先端の伊良湖岬の灯台の間の、狭い伊良湖水道を通過しました。

伊勢湾は、東京湾と同じように懐が深く、暗闇を通して右舷側の知多半島の中間あたりに、父親の故郷である常滑市の陶器を焼く窯の灯がいくつか見えました。ほどなく左舷側前方には四日市市の石油コンビナートの煙突や巨大タンカーが接岸しているのが見られました。 深夜近くに湾の一番奥にある名古屋港の灯りが見えて来ましたが、残念!今夜は検疫錨地での沖待ちということになった。

 

12月13日 朝起きるとモヤだかスモッグだか分からないが、太陽は昇っているのに、すりガラスを通したようにしか周囲が見えない。しかし、思っていたほど寒くない。 検疫は日の出から日没までと決められているのに、船長はじめ乗組員全員でイライラしていたが、検疫官が来ない。Am11:00にやっとこさ来たが、霧で視界が50m以下のため遅れたと、さらっと言い訳して、のんびり検疫が始まりました。Pm0:00に着岸し、Pm2:00に4ヵ月ぶりに日本の地を踏みました。この霧と検疫の遅れのため、拍子抜けしてしまい「帰って来たぞ!」という感慨はほとんどありませんでした。

名古屋港は市の南端の隅っこあるので、栄(さかえ)の繁華街まではタクシーで結構かかりました。 実家に無事名古屋に着いたことと、横浜で下船できることを知らせました。 外国での港からのタクシー料金は、大抵は乗る時に行き先を告げて、言い値を値切って決めるのが普通でした。損したか得したかは不明ですが、ほとんどの場合ボラれていたようです。やはりメーターの方がすっきりする。 それと日本のドライバーはセッカチな感じがしました。 ダーバンなどは女性で年配のドライバーが多く、動作・仕草や時間に対する感覚も、のんびりしています。これは国民性でしょう?

夜はサロン・ボーイとセーラーとで再度、歳末大売り出しで賑わっている街に出かけた。ボーリングをやり、パブで一杯やり、堪らなく食べたかった寿司を食らった。赤貝が旨かった!

 

12月14日 日本の荷役は実に効率が良く早い。午後早くには出港しましたが、遠州灘は漁船が多い上に、冬にしては珍しく海面から温泉場の湯気のようにモヤが立ち昇って、視界が悪く、オフィサーやクオーターマスターは神経質でした。

夜TVでボクシングの沼田vs小林のタイトルマッチが放映されましたが、石廊崎沖では電波状態が悪く、良く見えませんでした。 Pm11:00 過ぎに浦賀水道を通過した。

 

12月15日 Am8:00 に横浜に入港しました。 そのまま、次のニューヨーク航路に行く人が多いが、3等航海士は2等航海士に昇級してオーストラリア航路に移り、それ以外にも、休暇で実家へ帰るクオーターマスターやエンジニア、セーラーも何人かいました。そのため乗組員はそれぞれが慌ただしく、ゆっくりお礼と別れの挨拶が出来ませんでした。 ただ事務長と1等航海士が面倒な検疫(象牙や水牛の角など動物検疫)に付き合ってくれ、迎えに来た母親と妹の5人で野毛山の寿司屋で食事を摂り、「4か月間、貴重な体験をさせて頂き、我が人生の糧となりました」と感謝の気持ちを伝えて別れました。

急に、おばあちゃんの顔が思い浮かんだので、駅前で好物の「崎陽軒のシュウマイ」を買い、急く気持ちを抑えながら家に帰りました。玄関へ入るや「海に放り込まれなかったよ」と声をかけると、おばあちゃんが顔をクシャクシャにして出迎えてくれました。ご近所さんにはアフリカで釣った冷凍の鯛をみやげに配って、無事に帰ったことを知らせました。皆が喜んでくれ、「無事で良かったね」とねぎらってくれ、久しぶりに下町の人情を感じました。

 

総括:それにしても、足元が動いていないのは心休まる素晴らしいことです。 そして、空も海も陸も、日本は何もかもすべて良い。日本を離れて見て、水も空気も、色も音も、すべてが“very good”です。 地球のほんの一部分を見て来ただけですが、自分が日本人の感性を受け継いでいるのを実感しました。

今回、多くの若者たちが憧れるマドロス気分を、4か月間経験して来ました。歌や小説の世界では「七つの海を乗り越えて」などと、冒険やロマンティックな面が強調して伝えられていますが、船員さん達の日常生活はそんな生易しいものではありません。多くの事柄が誤解されて伝わっています。

おばあちゃんが言っていた「陸での食い詰め者」など、もちろん一人もいません。免状持ち(国家試験を通った士官、下士官)も、免状なしも、みんな謹厳実直(まじめ)です。給料の9割は会社から実家に直送され、無駄使いする人などいません。 

確かに船員の日常生活は、狭い限られた空間内での、男だけの付き合いなので、どうしてもコミュニケーション能力に乏しいようです。また航路によっては気候の変化が激しく、時には危険な状況に置かれることもあります。しかし、仕事の内容はしっかりウォッチ(勤務内容・時間)が決まっていて、古くからの慣習で、上下関係が厳格に決められてはいますが、三食・住まい付きで休暇もあり、待遇は決して悪くありません。

それでも、船乗りは定年(55歳)で船を降りて10年生きたら長生きの部類に入るそうです。そのためか、若い中にしっかり金を貯めて、早くに陸に上がると言う人は多いのですが、現実に実行できる人は極めて少数らしい。 なぜでしょう?

 

小生の結論を言えば、皆さん良い人です。しかし、1年の中80%以上は家族と一緒に暮らしていません。従って、肩を振る(話をする)のが好きですが、プライベートな事柄には口が重く、用心深くて容易に心を開きません。そのため付き合いは表面的で、話もホラ話が多く信頼性に欠けます。 

陸へ上がると、からきし意気地がないのは、一般社会で必要なコミュニケーション能力の不足だと思います。これはある面仕方がないことでしょう。

 

個人的には小生にとって、医療界とは全く違った世界での貴重な経験でした。これから先の長い人生で、必ずや役立つものと確信しています。