193 やぶのつぶやき

 我が医局(番外編 船医の冒険記 7)

 12月3日 午後にサードオフィサー、セーラーと市内見物に出かけました。熱帯性気候で蒸し暑く、不快指数はかなり高い。繁華街の「新世界」に行くつもりでタクシーを呼びましたが、「ぼられるから注意」といわれていたので、体が大きく、顔がいかついサードオフィサーが値切ると、驚くなかれ!たちまち言い値の半分になった。 街では日本で5~6年前に流行った、小林旭、橋幸夫、吉永小百合などの歌のテープやブロマイドが売られていて、若者たちですごく賑わっていました。客は中華系の人が多いが、インド系やマレーシア系の人々も結構多く混じっていて、香港とは違ったインターナショナルな感じがしましした。帰りに港近くのシーメンズ・クラブ(船員センター)に寄ったが、今までのクラブの中では一番きれいで落ち着けました。

 夜再び、事務長、1等航海士、局長と昨夜と同じ「チャン料理」店へ出かけ、連日の来店に店主が大いに感激して、付きっ切りで存分のサービスをしてくれました。 少し神経質な局長が、料理にハエが集るのを手で追っ払っていると、店主が「マスター!ハエはそんなに沢山は食べないから心配いらないよ」らしきことを言ったので皆で大笑いしました。

 店のカンバンまで粘っていたら、彼らの夜食に付き合わされた。彼らの食べているものには驚かされました。豚の脂身をきし麺のように薄く幅広に切って、これに小エビや野菜その他を混ぜて炒めたものを、うどんをすするように食べていました。小生にも「食べて見たら」と勧められたが、さすがに箸が出ませんでした。

 

代理店からうれしいニュースをもらいました。通常、船医は日本の第一寄港地(名古屋港)で下船するのが契約ですが、船長の口添えもあり、本社から横浜港までの乗船許可が下りたという連絡があったそうです。名古屋から横浜まではドクターでなく、客船扱いで乗船料タダのお客様だそうです。これはみやげ物の荷物が多く、実家から横浜まで自動車で迎えに来てもらえるので、大いに助かりました。

 もう一つ良いニュースが入りました。3等航海士が2等航海士に昇進しました。彼のウオッチが終わってから、深夜に祝いということで軽く一杯やりましたが、これが殊のほか効いてしまい、途中でバタンキューと寝てしまいました。

 

 12月5日 あと8日で日本とのこと。シンガポールに郵送されていた朝日新聞を読んでいる内に、1日も早く日本に帰りたくなった。さっそく下船の際、検疫用(動植物検疫:象牙、水牛の角…)の許可届け書を作るため、床一ぱいにみやげ物を並べて漏れがないようにリストアップしました。 

 

12月6日 「冬の南シナ海はシケるぞ」と脅かされていましたが、今日は穏やかなものです。ただ風が表(Against)のため船足が出なくて、ブリッジに居てもじれったかった。

 ベテランのクオーターマスターがヴァイス・ヴァロトの法則を教えてくれました。「風を背中に受けて両手を広げ、左手の前方が低気圧で、右手の後方が高気圧になる」というものだ。

 もう一つ月夜の場合に、周りの船が良く見えるのは月のある方で、反対方向は確かに水平線もぼやけて見にくい。それが昼間の太陽下では逆になる。これは当たり前だと思う。

  

 12月8日 朝からシケ、だが風が真表のためピッチング(縦揺れ)はひどいが、ローチング(横揺れ)が少ないため、それほど体には応えませんでした。しかし、船足が10ノット以下に落ちたままで、シンガポールを出てからイライラしっぱなしです。

 本船の次航予定はニューヨーク航路だそうです。オフィサー連は「冬のニューヨーク航路の天候は最低だ」と盛んに強調しています。ともかく、冬期北太平洋のシケは凄いらしい。船乗り生活10年以上のセーラーでも不安になるくらい激しく揺れるそうです。しかも、気温の変化が激しくて、パナマ運河では真夏の暑さなのに、4日間ほどでニューヨークは零下15℃ぐらいにまで下がってしまうそうです。 セカンド・オフィサーの経験では、横浜港を出港して一度も太陽を見ることなしに,20日後に朝起きたらサンフランシスコ港沖に着いていたことがあるそうです。従って体調の維持管理には気を遣うらしい。

 

 12月9日 台湾の南端(鵞鑾鼻)に至る。 シケ状態の中、近海のルソン島沖からSOSが入り、船長以下騒然となるが、他の外国船が救助に向かったとの連絡が入り、全員ホッとして、本船はそのまま一路日本への航路を進みました。

ラジオには台湾・沖縄の放送に交じって、かすかに日本本土の放送も聞こえるようになりました。

 シンガポールを出て以来、気温の低下と伴に急にセーラーの子猿が元気を無くし、鼻水を垂らして咳をするようになり、抗生剤の注射などをしましたが、今朝、部屋の隅で死んでいたそうです。船員一同で供養の上、水葬にして弔いました。

 

 12月10日 今航海で最大のシケとなりました。アフリカの東海岸でもシケましたが、食事の時にテーブルクロスに水を吹いて湿らせ、食器が滑らないようにしました。だが今回は食器を手に持ったままでないと吹っ飛んでしまう程でした。

 2等航海士は、この大波の高さは30m以上で、波長は100mを超えるだろうと推定していました。 本船は全長156m、幅19.6mあるのだが、船全体がこの波にそっくり乗っかてしまう。この状態を「木の葉のように」と表現するのでしょう。

舳先を波に突っ込み、これをピッチング(縦揺れ)で跳ね上げるので、青波がブリッジのフロントガラスまで、ものすごい音を立てて打ち付け、回転式のワイパーが全く用を成しません。 ローリング(横揺れ)も半端でなく、船体が20度以上も傾き、そのまま復元しないで、転覆してしまうのではとハラハラしました。これが典型的な冬期東シナ海のNorth-West Monsoonだそうです。極端に船足が落ちてしまったので、日本への到着は1日遅れる予測だそうです。

 

12月11日 午前中は昨日ほどではないが、シケは続いて依然として船足は伸びません。昨夜の中に沖縄本島は通過していました。 4-8の1等航海士のウォッチ中は、まず臥蛇島が見え、引き続いて次々と島影が見え始め本土近しという気がしました。 8-0の3等航海士のウォッチ中では、白煙を噴く活火山を持つ口永良部島を横に見ながら、屋久島、種子島を次々と通過し、遂に九州最南端の佐多岬に到達しました。種子島との間の大隅海峡は、黒潮の流れが強く船足が延びて、本船にしてはめずらしく18ノット以上も出ました。

小生の帰国を歓迎してくれるかのように、行く手の空には大きな虹の橋が架かっていました。しかし、気温はどんどん下がって、午後には8℃となり暖房が入りました。

 

12月12日 素晴らしい天気だ。海も穏やかで、船足も軽く16~17ノットは出ていた。朝から望遠鏡片手にブリッジに居座って、次々と現れる沿岸をオフィサーの説明を聞きながらウォッチングした。 Am10:00前には室戸岬が見えて来ました。 甲板の方でも荷揚げのための準備で、デリック・クレーン(荷を水平・垂直に移動させる重機)を設置していました。

昼食を済ませてからも直ぐにブリッジに戻り、2等航海士のもと汽笛のテストをやらしてもらった。ずしんと下っ腹に響く爽快な音でした。さらにクオーターマスターの指導で難しい進路測量(bearing)も何回かやって見ました。

紀伊半島の先端の潮岬から熊野灘に沿って、那智勝浦町、新宮市、熊野市、尾鷲市・・・の沖を進みました。日本の沿岸は変化に富んでいて、背景の山々も味わい深い趣です。うす暗くなって志摩半島の大王崎を回って、いよいよ伊勢湾に向かいました。

レーダーで見ると驚くほど多くの船数が見られました。多くは漁船とのことです。暗くなったPm9:00頃に、三島由紀夫の小説「潮騒」で有名な「神島」の灯台と、渥美半島先端の伊良湖岬の灯台の間の、狭い伊良湖水道を通過しました。

伊勢湾は、東京湾と同じように懐が深く、暗闇を通して右舷側の知多半島の中間あたりに、父親の故郷である常滑市の陶器を焼く窯の灯がいくつか見えました。ほどなく左舷側前方には四日市市の石油コンビナートの煙突や巨大タンカーが接岸しているのが見られました。 深夜近くに湾の一番奥にある名古屋港の灯りが見えて来ましたが、残念!今夜は検疫錨地での沖待ちということになった。

 

12月13日 朝起きるとモヤだかスモッグだか分からないが、太陽は昇っているのに、すりガラスを通したようにしか周囲が見えない。しかし、思っていたほど寒くない。 検疫は日の出から日没までと決められているのに、船長はじめ乗組員全員でイライラしていたが、検疫官が来ない。Am11:00にやっとこさ来たが、霧で視界が50m以下のため遅れたと、さらっと言い訳して、のんびり検疫が始まりました。Pm0:00に着岸し、Pm2:00に4ヵ月ぶりに日本の地を踏みました。この霧と検疫の遅れのため、拍子抜けしてしまい「帰って来たぞ!」という感慨はほとんどありませんでした。

名古屋港は市の南端の隅っこあるので、栄(さかえ)の繁華街まではタクシーで結構かかりました。 実家に無事名古屋に着いたことと、横浜で下船できることを知らせました。 外国での港からのタクシー料金は、大抵は乗る時に行き先を告げて、言い値を値切って決めるのが普通でした。損したか得したかは不明ですが、ほとんどの場合ボラれていたようです。やはりメーターの方がすっきりする。 それと日本のドライバーはセッカチな感じがしました。 ダーバンなどは女性で年配のドライバーが多く、動作・仕草や時間に対する感覚も、のんびりしています。これは国民性でしょう?

夜はサロン・ボーイとセーラーとで再度、歳末大売り出しで賑わっている街に出かけた。ボーリングをやり、パブで一杯やり、堪らなく食べたかった寿司を食らった。赤貝が旨かった!

 

12月14日 日本の荷役は実に効率が良く早い。午後早くには出港しましたが、遠州灘は漁船が多い上に、冬にしては珍しく海面から温泉場の湯気のようにモヤが立ち昇って、視界が悪く、オフィサーやクオーターマスターは神経質でした。

夜TVでボクシングの沼田vs小林のタイトルマッチが放映されましたが、石廊崎沖では電波状態が悪く、良く見えませんでした。 Pm11:00 過ぎに浦賀水道を通過した。

 

12月15日 Am8:00 に横浜に入港しました。 そのまま、次のニューヨーク航路に行く人が多いが、3等航海士は2等航海士に昇級してオーストラリア航路に移り、それ以外にも、休暇で実家へ帰るクオーターマスターやエンジニア、セーラーも何人かいました。そのため乗組員はそれぞれが慌ただしく、ゆっくりお礼と別れの挨拶が出来ませんでした。 ただ事務長と1等航海士が面倒な検疫(象牙や水牛の角など動物検疫)に付き合ってくれ、迎えに来た母親と妹の5人で野毛山の寿司屋で食事を摂り、「4か月間、貴重な体験をさせて頂き、我が人生の糧となりました」と感謝の気持ちを伝えて別れました。

急に、おばあちゃんの顔が思い浮かんだので、駅前で好物の「崎陽軒のシュウマイ」を買い、急く気持ちを抑えながら家に帰りました。玄関へ入るや「海に放り込まれなかったよ」と声をかけると、おばあちゃんが顔をクシャクシャにして出迎えてくれました。ご近所さんにはアフリカで釣った冷凍の鯛をみやげに配って、無事に帰ったことを知らせました。皆が喜んでくれ、「無事で良かったね」とねぎらってくれ、久しぶりに下町の人情を感じました。

 

総括:それにしても、足元が動いていないのは心休まる素晴らしいことです。 そして、空も海も陸も、日本は何もかもすべて良い。日本を離れて見て、水も空気も、色も音も、すべてが“very good”です。 地球のほんの一部分を見て来ただけですが、自分が日本人の感性を受け継いでいるのを実感しました。

今回、多くの若者たちが憧れるマドロス気分を、4か月間経験して来ました。歌や小説の世界では「七つの海を乗り越えて」などと、冒険やロマンティックな面が強調して伝えられていますが、船員さん達の日常生活はそんな生易しいものではありません。多くの事柄が誤解されて伝わっています。

おばあちゃんが言っていた「陸での食い詰め者」など、もちろん一人もいません。免状持ち(国家試験を通った士官、下士官)も、免状なしも、みんな謹厳実直(まじめ)です。給料の9割は会社から実家に直送され、無駄使いする人などいません。 

確かに船員の日常生活は、狭い限られた空間内での、男だけの付き合いなので、どうしてもコミュニケーション能力に乏しいようです。また航路によっては気候の変化が激しく、時には危険な状況に置かれることもあります。しかし、仕事の内容はしっかりウォッチ(勤務内容・時間)が決まっていて、古くからの慣習で、上下関係が厳格に決められてはいますが、三食・住まい付きで休暇もあり、待遇は決して悪くありません。

それでも、船乗りは定年(55歳)で船を降りて10年生きたら長生きの部類に入るそうです。そのためか、若い中にしっかり金を貯めて、早くに陸に上がると言う人は多いのですが、現実に実行できる人は極めて少数らしい。 なぜでしょう?

 

小生の結論を言えば、皆さん良い人です。しかし、1年の中80%以上は家族と一緒に暮らしていません。従って、肩を振る(話をする)のが好きですが、プライベートな事柄には口が重く、用心深くて容易に心を開きません。そのため付き合いは表面的で、話もホラ話が多く信頼性に欠けます。 

陸へ上がると、からきし意気地がないのは、一般社会で必要なコミュニケーション能力の不足だと思います。これはある面仕方がないことでしょう。

 

個人的には小生にとって、医療界とは全く違った世界での貴重な経験でした。これから先の長い人生で、必ずや役立つものと確信しています。