こんにちは。口から飛び出す英語トレーナー藤香峰智子です。
この『闇は光をもとめて』シリーズでは、女性の自立をテーマに私の体験記を綴っていきます。
私がどのようにして自由を勝ち取り、自分らしく生活するまでを書いています。
今日は8回目になります。
自立のきっかけ
暑い夏に、どんな花が咲いているのか写真に収めてきた。
暑いのに本当によく咲いている、と思いながら。
もちろん定番はひまわり。
その他には・・・・・。
そして、花ではないが、蝉の抜け殻がたくさん木に。
今の時期だから見れる風景だ。
そして、
夏の夕方の空。
この日の雲がオレンジ色になり、綺麗だな、と思って写真に撮った。
さて、前置きが長くなってしまったが、フランクル著『夜と霧』にはこんな描写があった。
とうてい信じられない光景だろうが、わたしたちは、アウシュヴィッツからバイエルン地方にある収容所に向かう護送車の鉄格子の隙間から、
頂が今まさに夕焼けの茜色に照り映えているザルツブルグの山並みを見上げて、顔を輝かせ、うっとりとしていた。
わたしたちは、現実には生に終止符を打たれた人間だったのに
―あるいはだからこそ―
何年ものあいだ目にできなかった美しい自然に魅了されたのだ。
この状況と私が体験したことは次元が異なるのだが、
私が娘を妊娠していたころの、ある午後、
同居していたKを、とても些細なことで怒らせてしまったことがある。
怒らせた、といっても
私はあることに対して疑問を感じて、質問しただけであった。
ただの質問だったのに、
それ自体が気に入られなかっただけで、Kの私に対する暴言は延々と続いてしまった。
暴言とは
人を支配するための凶器だ。
同じ家に住んでいて、
こんなに不愉快になることはない。
また、たちの悪いことに、Kを不愉快な気持ちにさせたことは、Kの息子であるYに言いつけられる予定にあった。
心がKの暴力で踏みつぶされた私は、
いたたまれなくなって、窓の外の草花をしばらく眺めていた。
その草花は細長い緑の茎にピンクの小花が螺旋状についていた。
(後でこの草花はネジバナということが分かった。)
そのとき、
しみじみと、花ってなんて優しいのだろう、と心から思わずにはいられなかった。
ピンクの優しい花は、絶対に暴言を吐かない。
反対に暴言は人の心を殺伐とさせるだけだ。
花は美しいし、
ただ、咲いていて、見るものの心を和ませてくれる。
少なくとも暴言を吐く人間より、草花のほうが、
私にとって素晴らしい価値がある。
究極のところ、
K自身もO家の嫁の立場だったときに、そんないじめを受けたに違いない。
嫁として大切にされなかったから、
その体験を、姑になったときに、嫁に対して暴言やいじめという形で、循環させているのだ。残念なことだが。
人は誰でも老いる。
老いたときに元気ならいいけれど、
例えば、嫁に、行きたい場所に連れて行ってもらうこともあるだろう。
ご飯を作ってもらうこともあるだろう。
自分がお世話になる人に向かって、暴言を言いたい放題とは、
なんてナンセンスな話だろう。
嫌われるだけなのに。
私はいつもそう思っていた。
このKとYの家は、私にとって、まるで殺伐をした監獄だった。
フランクルの『夜と霧』に戻ろう。
そしてわたしたちは、暗く燃えあがる雲におおわれた西の空をながめ、地平線いっぱいに、鉄(くろがね)色から血のように輝く赤まで、この世のものとも思えない色合いでたえずさまざまに幻想的な形を変えていく雲をながめた。
その下には、それとは対照的に、収容所の殺伐とした灰色の棟の群れとぬかるんだ点呼場が広がり、水たまりは燃えるような天空を映していた。
わたしたちは数分間、言葉もなく心を奪われていたが、だれかが言った。
「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」
この時、私が何か美しいものを探すとすれば、家の中にはとうてい求めることができなかった。
美しいと思うものは、外の世界の、
雪をかぶった男体山の姿だったり、
秋山川の優しいせせらぎだった。
約8年後に、私は東京に賃貸住宅を見つけ、住むことになるが、
暴言を吐く人間がいないとは、なんて幸せなのだろう・・・・と実感した。