こんにちは。口から飛び出す英語トレーナー藤香峰智子です。
この『闇は光をもとめて』シリーズでは、女性の自立をテーマに私の体験記になります。
私がどのようにして自由を勝ち取り、自分らしく生活するまでを書いています。
今日は4回目になります。
2019年10月13日撮影。秋山川が氾濫した翌日の様子。川が海のようになっていた。午前中よりたくさんの人が様子を見に来ていた。
フランクルの『夜と霧』に戻ろう。
感情の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心。これら、被収容者の心理的反応の第二段階の徴候は、ほどなく毎日毎時殴られることにたいしても、なにも感じなくさせた。
この不感無覚は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ。なぜなら収容所ではとにかくよく殴られたからだ。まるで理由にならないことで、あるいはまったく理由もなく。
この収容所の様子とは次元が違うのだが、
私の状況も似たようなものであった。
Yは、とにかく私を自分より低次元のものとして扱っていた。
低次元、というかY自身の従属物といった方が適当かもしれない。
具体的には、
- 何かにつけ小馬鹿にすること。
- Yの母親Kと一緒に私の陰口を叩くこと。
- 出された食事に対して文句をつけること。
- 変わっている、と文句をつけること。
- 私が気に入らない車の運転をした時に怒鳴り散らすこと。
- 少しでも気に障ったことがあれば上から目線で怒鳴り散らすこと。
- 私が外で仕事をして、もらった給料に対して、自分の稼ぎより生産性が悪い、とばかにすること。
・・・・これが当たり前化していた。
このように書くと、本当にいたたまれなくなる。
でも、真実だ。
だから、いちいち馬鹿にされたからといって、傷ついても仕方がない。生きていけない。
生きていくために、私はYの言うことに無感動で、無関心になっていったし、面従腹背を貫いていた。
それが自分の中に隠し持っている私の自尊心を守る唯一の術なのだから。
ただ、淡々と日々のやることをこなしていった。
残念なことに、Yは私のする家事や育児、アイロンがけなどの身の回りの世話に対して、ありがとうの一言も言わなかった。
そればかりではない。
自分の言ったことにたいして、ひどい暴言についても
「ごめんね」の一言もなかった。
ありがとうもなく、
ごめんね、すみません、もなくて、
ただ暴言が繰り返される。そんな日常だった。
暴言がひどい時、私はよく寝込んだ。
暴言が心に与える影響は計り知れない。
心の中の美しい花が根こそぎ踏みにじられて、枯れていくようなものだ。
11月16日、私はリュックに大切な身の回りのものを入れて、家をでた。
東京でセミナーがあるから出かけていく、と言って。
本当はスーツケースに服などのたくさんの荷物を運びたかったのだが、あからさまに家出だとバレたくなかったので、
荷物は最小限に留めておいた。
まるで、監禁されていた人が初めて外の世界にでた気持ちだった。
・・・・これから何が待っているのかわからないけど、自分の好きな仕事をして、自分を労わる生活をしたい。
いや、しなければ自分がおかしくなってしまう。
電車を待ちながら、そんなことをかんがえていた。
本当だったら、娘を一緒につれてきたかった。
でも、この時は、自分一人の体を持ちこたえさせるのに精いっぱいだったし、娘には娘の世界があるし、わがままを言われたりすることを考えると、自分一人で家出するのがベストだった。
大袈裟かもしれないが、この日は、清水の舞台から飛び降りる、という表現がぴったりとくる。