ちょっと前のことですが
書いておこうと思います
年末年始で読み終わった本はこちら
『アロハで猟師、はじめました』
近藤康太郎 河出書房新社
著者は、朝日新聞の記者のうち
エッジの効いた文章を書く
おんもしろい人だなあと注目してる何人かのうちの1人。
たまたま、図書館に行ったとき
新着本コーナーにこの本があるのを見つけて
借りてきて読み始めました。
意図せず、ちょうど
『まのいいりょうし』
(瀬田 貞二 再話 赤羽 末吉 画 福音館書店)
を自分なりに
ふかよみしようとしていたタイミングでした。
猟師のことを何も知らないわたしにも
猟師とはどういう人たちなのか
どういう仕事なのか
わかりやすく
興味深く
この本を読んで知ることができました。
『まのいいりょうし』のために
借りてきたわけではなかったのですが
『まのいい読書』でした。
例えば、こんなことがわかります。
・猟師はつるまない
・狩場(かも猟の場合は、堤=ツツミ=田んぼ用ため池)は、猟師の財産
・鴨は極めて視力がいい。「木をつかむな」なぜなら葉が揺れて、鴨が気づく。
・鴨に先に気づかれたら終わり。風が吹いていると、気づかれにくい。
・弾が当たっても致命傷にならず、まだ生きている獲物を「半矢」と言う。「半矢で放置」は猟師一番の恥。
鴨には、動物には、「死」という概念がない、とにかく生きようとする。
ああ、そうか
ああ、もしかしたら
ああ、赤羽末吉さんの描く
この朝の猟は、風が吹いていたのかな
猟師は鴨の背後から近づいたのだな
最後の1羽は「半矢」だったのだな
必死で生きようとしたのだな
猟師は、半矢の鴨を放置しなかったのだな
なんてことも
赤羽末吉さんの絵から勝手に
あれこれ考えてしまう。
まのいい猟師の撃った弾は
たった一発。
それでこれだけの獲物をゲットできるなんて。
底抜けに明るいお話で
『まのいいりょうし』、大好きです。
さて、近藤さんの『アロハで猟師、はじめました』で
わたしが
特に書き写した箇所を
せっかくなので、引用してご紹介したいです。
近藤さんは、罠猟もします。
(以下引用)
そっと近づくと、人間の気配を感じた鹿が死にものぐるいで暴れ始める。いままでもさんざん、もがいていたのだろう、罠にくくられた足首が、へんな方向にねじけて曲がっている。その無惨を描く筆を、わたしはもたない。
早く楽にしてやりたい気持ちは山々なのだが、たとえそれがメスの鹿であっても、死にもの狂いで暴れる動物に近づく度胸など、ふつうの人にはないはずだ。わたしにもない。本能で腰が引け、何度も縄を投げては、はずすを繰り返した。
(中略)
崖からはい上がり、獲物に断固と近づき、今度は一回で鹿の首にロープを通した。締める。
キョーン!
鹿が初めて鳴いた。思いもかけない高い声だった。馬鹿力で引き倒す。
キョーン!
二度、泣いた。山に響いた。いまも、耳に響いている。
(中略)
鳴き声が、みんなの耳から離れない。人間は、命を泣かせて生きている。
(引用ここまで)
「鳴く」と「泣く」を
あえて使い分けているのですね。
「その無惨を描く筆を、わたしはもたない。」
この言い回しも、グッときました。
近藤さんは、暴れる鹿に恐れて、後ずさった拍子に
2メートルくらいの崖から落ちてしまい
師匠や後輩たちや読者(わたし)に笑われます。
「安全地帯の見物人は、いつも笑うものなのだ」
↑これはいろんな場面で、当てはまりそう。
わたしも、年末に夜の山道を歩いていたら
突然、目の前に立派なツノの大きな鹿が現れ、
恐ろしくて身動きできずに、しばらく見つめあいました。
彼が、死に物狂いで暴れていたらと想像すると
例え、罠でくくられているとしても
そりゃあ、近づけない。
ちょっと引用しただけでは
本書のドキュメンタリー映像を見るような文章のすごみと面白みは
伝わらないと思うので、この154ページあたりは、ぜひ、読んで欲しいです。
こちらも書き写しました。
そう、近藤さんはアロハで田んぼもやってます。
(以下引用)
人力田植えとは、触覚、視覚、聴覚、味覚を動員する「感性の力作業」であった。
(中略)
猟になると、ここに嗅覚も加わる。
田んぼに猟は、五感を最大限に働かせる、人間性回復の営みでもあったのだ。
インターネットやカーナビゲーションやスマートフォンは、たしかに便利な文明の利器だが、これらを使っているときの不完全燃焼感、隔靴掻痒感は、ここに淵源する。
文明の利器とはすなわち、記憶力や時間・空間認識能力、そして五感までを、機械に明け渡す道具なのだ。
現代とは、人間能力のアウトソーシング化の時代である。
わたしはそれを全否定しない。ライター仕事では、ネットもスマホも使う。ただ、人力田植えや猟は、人間の能力を思い出させる力があると、言うだけだ。
(引用ここまで)
「記憶力や時間・空間認識能力、そして五感までを、機械に明け渡す」
ほんとこれ。
オフラインだった過去の自分は、電話番号、何人分も覚えていたし
地図を片手に行きたい場所にちゃんとたどり着けたし
言葉が通じない国で出会った人とコミュニケーションを取ってた。
目の前の子どもがやることをスマホ越しではなく、我が目で、じっと見てた。
人力田植えや猟は、わたしはこの先もやらないけど、
自分の能力を思い出させることを
もっと意識しないといけない。
そして、本書を読み進めると
近藤さんは
畳み掛けてきます。
(以下引用)
自分探しなど、さてさて笑止の限りだ。自分とはなにかと探すのではなく、ついについにこう問わなければならないのだ。「なにが自分であるのか」と。
わたしとはなにか。
決まっている。他者の命だ。他の命の殺戮によって成り立つ、たったいっときの〈現象〉が、わたしなのだ。
(中略)
わたしとはなにか。涙目になった鹿や猪の、死骸の群れの巨大な集積だ。猟師でなくてもそうだ。殺されるために生かされている、成長ホルモン注射で苦しむ牛や、身動きできないケージで一生を過ごす豚や鶏の、死骸の集積がわたしたちの命だ。魚も、野菜も、同様だ。他者の命の「こそ泥」が、わたしたちだ。ごまかしてはいけない。
だからこそ、わたしたちは、なにかに「なる」のでなければならない。他者の命を奪って生きる、悲しくも恐ろしい命の倫理として、わたしはわたしで「ある」だけでは不十分だ。わたしはわたしに「なる」のでなければ、かつてのかつても、いまのいまも、大量殺戮の連続たる毎日の、申し訳が立たない。
(引用ここまで)
外側からの取ってつけたような話じゃなくて
うちから
我が身を使って
体を張って
キッパリと言い切り
断言されてしまうので
ぐうの音も出ない。
厳しい。
じゃあ、わたしはこれから先、肉を食べないか、ベジタリアンになるか、放牧を始めるか、
そんなことはあるはずがない。
わたしの周りには
リアルに
猪をとり
畑を耕し
田んぼで稲を育て
豚を放牧している
友だちがいるので
なんもしてないわたしは
迂闊なことは
言えません。
ーわたしはわたしに「なる」のでなければ、かつてのかつても、いまのいまも、大量殺戮の連続たる毎日の、申し訳が立たない。ー
そんな感覚は持ち合わせていない。
あー。しんど。
どうすりゃいいんだ。
そう思った箇所を引用して共有しちゃいました。
それにつけても
「ついについに」とか
「かつてのかつても、いまのいまも、」とか
ありそうでない 言葉の使い方に出会って
ハッとする読書体験です。
『アロハで猟師、はじめました』
近藤康太郎 河出書房新社
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