東京で観た松井須磨子の舞台『人形の家』が忘れられず、演劇を目指すため意を決し離婚する。6歳の息子を津和野の婚家に残し、1916年(大正5年)に26歳でふたたび上京した伊沢蘭奢の物語を読む
内容
婚家を捨てて、一躍、大正の劇壇を駆け上った伝説の女優・伊澤蘭奢の嵐の生涯 「私、女優になるの。どうでも、決めているの」。松井須磨子の舞台に胸を貫かれ、二十七歳で津和野から夫と子を捨て出奔した女は、東京で女優・伊澤蘭奢へと変身した。「四十になったら死ぬの」とうそぶき、キャリア絶頂で言葉通りに世を去った女の劇的な人生を、徳川夢声ら三人の愛人と息子の目から描く
近代演劇の創成期に女優として名を成そうと走り続けた伊澤蘭奢の生きざまはすざましい。その彼女の活動はそれぞれの領域で草分け的であった男性に支えられる。
一人は、自分の描く「自立した女性」として彼女を援助した当時の有名ジャーナリストの内藤民治。一人は、マルチタレントの徳川夢声が恋人として彼女を支える。
後に文芸評論家になる「火遊びの相手」とされる福田清人と彼女の息子作家・伊藤佐喜雄は内藤に遺稿集の編纂を託された。
パトロンの内藤に多くの支援を受けながら、「自立する」女性を目指し華やかで罪深い短い人生を送った。
彼女の葬儀には支えた男達が参列していたが、その姿を見ていた疎遠ではあったが母を愛した息子は複雑な気持ちであったことだろう。
そして、息子を愛しながらも育てる事が叶わず、俳優の道半ばで世を去った彼女の突き進んだ人生は儚くも切なく、そして尊い。
お盆で鬼籍に入った伯母を思い出し過去を遡っていると、ダンサーとして名が残っていた。宝塚音楽学校に入学したものの、私の祖父、伯母の父に「女は家を手伝えばよい。」と引き戻された。そしてお見合いした相手は先代の増井山関。結婚には至らなかったようだが昭和の時代でさえ「自立」しようとする女性は生きづらかったはずだ。伯母は90歳を過ぎても出かける前に、どのサングラスが似合うか私に尋ねる程おしゃれな人であった。
