水俣 / ユージンスミス | Photo Life in Toyama

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富山の写真家 林治のブログです

いつも Photo Life in Toyama へご訪問いただき、ありがとうございます。

 

昨日、書店(富山市内)へ行き、写真コーナーを見ていたところ、書棚の一角にひっそりとユージンスミスの写真集 MINAMATA が置いてありました。

 

◆これです

 

ここで、中身の写真をご紹介できないのがとても残念です。

 

 

 

思わず手にして、パラパラとページをめくりました。

 

すると、昔・・中学高校の頃に、雑誌で紹介されたユージンスミスの写真を見て、鉄バットで殴られたような衝撃を受けて以来、写真部の指導者が持ってきてくれた写真集を見、写真展へも行き、そうした当時の経験がその後の写真活動の礎になったこと。これらが走馬灯のように頭を駆け巡りました。

 

そして、何十年ぶりかで見る水俣の写真の数々。

(再版なので昔見たものと少し違うかもしれませんが)

 

目に入ってくる一枚一枚の写真が、最高レベルのARTでもあり、且つ痛いほど現実を写し出してもいる。


構図もタイミングも仕上げも素晴らしく、そして何より観る人の心の琴線に触れて心を揺さぶるというARTの本質が目の前の写真集の中に並んでいる。

 

ユージンスミスと妻のアイリーン
(Wikipediaより)

 

写真が持つ力を、あらためて再認識しました。

 

また、不思議なことは、この中にあるどの写真も構図の感覚がしっくりきました。

 

私は普段ほとんど(特に日本人の)写真集を見ても構図がしっくり来ず、それが気になって「心が中に入っていかない」ことがほとんどなのですが。

昔、何度も何度も見た写真なので、私が強く影響を受けているせいかもしれません。

 

そして、そのトーンの美しさ。凛とした空気感と現実以上に生々しい光感。

ARTとしての完成度が高いからこそ、その絵に写っているものが心の奥にすっと入り直に触れてくる。

 

久しぶりにレベルの高い写真を見ることができて幸せな気分になりました。

 

 

次に、ユージンスミスに関する2つ目です。

 

ユージンスミスは、撮影だけでなく暗室作業を含めた仕上げに関し、極めて厳しく追求していたことが知られています。

 

ジャーナリストや、ドキュメンタリー写真というと、作品作りは撮って出しのように思われるかもしれませんが、フィルム時代はもちろんデジタル時代になっても、このように表現力豊かな写真は撮って出しでは無理なのでご注意ください。

 

そして、以下はユージンスミスがいかに仕上げ(暗室作業)に拘っていたか分かる文章です。

(以下、Wikipediaより転用)

 

ユージン・スミスの写真の特徴は、「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリである。[78] そのメリハリは、妥協を知らない徹底した暗室作業によって作り出された。

日立製作所の仕事に助手として参加した森永純は、「暗室作業についていえば、渡された1枚のネガから、いくらプリントしてもOKをもらえず、悪戦苦闘したことが忘れられない。こうなると私も意地で、知っているだけの技術を使い、とうとう1週間かかって100余枚のプリントを焼き、やっとその中の1枚だけにOKをだしてもらったことがある」と書く[79]

それに加えてユージン・スミスは、トリミングを駆使して被写体を強調したり、重ね焼きを用いたりした。例えばアルベルト・シュヴァイツァーを被写体とした1枚は手と鋸の影が重ね焼きされた。そもそもユージン・スミスは、リアリズム写実主義)を排除していたとされる。

 

また・・

ユージンスミスの写真感については、以下の記述で多少なりとも理解していただけると思います。

 

これは客観的な本ではない。ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞきたい言葉は『客観的』という言葉だ。そうすれば、出版の『自由』は真実に大きく近づくことになるだろう。そしてたぶん『自由』は取りのぞくべき二番目の言葉だ。この二つの歪曲から解き放たれたジャーナリスト写真家が、そのほんものの責任に取りかかることができる

— ユージン・スミス、写真集『水俣』英語版の序文

 

ジャーナリズムにおける私の責任はふたつあるというのが私の信念だ。第一の責任は私の写す人たちにたいするもの。第二の責任は読者にたいするもの。このふたつの責任を果たせば自動的に雑誌への責任を果たすことになると私は信じている

— ユージン・スミス、写真集『水俣』英語版の序文

 

写真は見たままの現実を写しとるものだと信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつくということに気づかねばならない

— ユージン・スミス、ユージン・スミス写真集 一九三四-一九七五

 

右差し 上記2番目で、写真家は「写す相手」と「読者」に対する責任を果たすべきで、写真雑誌や編集者に対して責任を果たすために写すものではない、と言っています。つまりお金をもらう相手や、業界の評価や、編集者の顔色ばかり気にして写真を撮っているのは間違っていると言っている訳です。大事ですね。

 

右差し 上記3番目で、写真は現実を写しとることではない、ということも言っています。これも大事ですね。

 

 

◆ ご参考:ファインアート写真(アートフォト)について、一番まとまっていると思う本

 

 

長音記号1

 

話を戻しまして・・

 

写真には強い力があると思います。

 

また、写真はある程度ARTの要素を押さえていないと、人の心に入っていけない気がします。

それが写真表現の本質の一端を担っていると思うのですが、皆さんどう思われるでしょうか。

 

ご意見もお待ちしています。

 

 

今日もブログを読んでいただき、ありがとうございます。

今日の仕事が終わっていないので、これから頑張りたいと思います。