全国都道府県を巡った旅の思い出を、時には思い出しながら県別に整理をしています。茨城県の風景になります。


堀    茨城県坂東市逆井    (2018年4月撮影)
逆井城跡公園にある逆井城(さかさいじょう)の堀。

二層櫓と門
この二層櫓は、戦国時代末期の時代背景を基に、外観二層の容姿をもつ戦国期の櫓を復元したものです。近世の隅櫓ではない時代を感じる櫓として、6m四方の平面を持ち、入母屋の望楼に下見板張り等の外壁によって当時の景観を再現しています。   (説明板より)
二層櫓1階
逆井城は、飯沼に臨む標高20mの台地先端にあり、城の北側は飯沼が洗い、西側は入江の蓮沼に接していました。飯沼は江戸時代の新田開発により湖水はなくなりましたが、およそ幅1km・南北30kmにわたり、その名残を残しています。
二層櫓2階
今から約410年前の戦国時代に、この飯沼が小田原の後北条氏と佐竹氏・結城氏・多賀谷氏らの領国の境目でした。
井楼櫓
進攻を続ける後北条氏は飯沼に築城をはじめ、天正5年(1577)10月、北条氏繁(玉縄城主)は、藤沢より城の建物をつくるため大鋸引の 職人をよんでいます。
逆井城跡公園
城主となった氏繁は、盛んに佐竹下妻方面の動勢を報告していますが、翌天正6年(1578)にこの飯沼城中で没し、その後舜氏が城代となりました。天正18年、豊臣秀吉は、田原城に後北条氏を滅し、この飯沼城も廃城となりました。    (説明板より)
井楼矢倉(せいろうやぐら)
井楼矢倉は米を蒸す蒸籠(せいろう)と同じように井形に組んだ方形材を次々と組み上げた矢倉です。井楼矢倉の役割は、①物見矢倉として敵の動勢を監視する。 ②味方の全軍の動勢を把握する。 など、軍事的なものです。このような矢倉の役割が発展大規模化したものが近世城郭の天守閣で、城主の威厳を誇示した政治的役割が加味されています。この井楼矢倉は戦国時代末期のものを復元したものです。    (説明板より)
井楼矢倉からの風景です。
土塁
関宿城門
関宿城の城門と言い伝えられるこの門は、 本柱が門の中心線上から前方にずれている薬医門と呼ばれるものです。関宿城は久世氏が城主を努めていましたが、明治2年の廃藩置県により久世氏は関宿知藩事となり、城も明治6年に大蔵省の所管となって廃城となりました。その後、建物の一部は民間に払い下げられ、残りの建物は取り壊されてしまいました。この時に払い下げされたものの一つがこの城門と伝えられ、町内の鶴見栄助氏宅にあったものを移築しています。    (説明板より)
主殿
この主殿は、茨城県潮来市(旧牛堀町)で発掘調査された大台城跡発掘の際に出土した主殿遺構を参考に建築されたもので、逆井城と同時代に存在していたものです。
主室
構成は正面から見て右側半分が主室で、主室の三間に三間の部屋構成は「九間の間」と言われるもので、室町時代中期の主殿建築の特徴的なものです。前面には枯山水庭園が広がっています。
控室
左側半分がその控室的な部屋となっています。    (説明板より)
観音堂
この観音堂は大安寺(旧岩井市)にあったものを町が譲り受け、移築・復元したものです。建物解体時に、天正16年(1588)建立時の棟札と弘化2年(1845)再興時の棟札が発見され現存しています。    (説明板より)
鐘(かな)掘り池
天文5年(1536)3月3日、ときの逆井城主逆井常繁は、北条氏康の家臣であった大道寺駿河守(?)の城攻めに敗れ戦死しました。この時、城主の奥方(又は娘)は先祖代々伝わる釣鐘をかぶってこの池に飛び込み自殺したと言われています。この釣鐘を探そうと何人もの人が池を掘ったため「鐘掘り池」とか「鐘掘り井戸」と呼ばれています。    (説明板より)
櫓門と橋
この櫓門と橋は逆井城跡の発掘調査の成果を元に復元されています。橋の遺構は礎石・男柱・支柱の穴が見つかっています。また、櫓門の遺構としては、東西に3個ずつ2列で方形に結べる柱穴と雨後(うご)溝(みぞ)が見つかっています。復元に当たっては遺構保存のため、旧柱位置よりも西へ1m、北へ50㎝ずらされています。なお形については、資料を基に戦国時代末期の姿を想定しています。
横矢掛かり
土塁に凹凸や屈曲を設けることを横矢を掛けると言います。横矢掛りは虎口や土塁に近づいた敵を、横から攻撃するためのものです。横矢は虎口と共に発達しました。ここ逆井では、橋と並行する土塁が横矢掛りとなり、敵を攻撃する矢や鉄砲などをかけやすくする場となっています。現在、土塁は往時の姿より低くなっていますが、空堀にかかる橋よりも高く、復元した門に対し、効果的な守備を発揮できるような位置となっています。なお、東側の二曲輪にも横矢土塁がみられます。    (説明板より)
比高(ひこう)二董土塁
土塁は堀や塀の施設と併せ、敵の攻撃を妨げたりする機能を持っています。逆井城跡の東側に位置するこの土塁は、堀の外側と内側に土塁があり、高さが外側土塁に比べて内側土塁が高くなっています。このような土塁の構築を比高二重土塁といい、戦国時代末期にこの城を構えた後北条氏の築城法の特色のひとつです。またこの土塁は、堀の幅約13mの規模を持ち、そこに8ヵ所の横矢の構造を持つ戦国時代末期のもので、当時の面影を残しつつ現在まで手つかずのまま残っています。    (説明板より)