昨日の「昭和49年3月の猪木Vs小林、ビッグファイトシリーズのパンフ発掘」の後日談です。
昭和49年3月19日、蔵前国技館の猪木小林戦、夜行列車「銀河」で東京にいって当日券で観戦、
その後、ターザン山本がネーミングした「密航」とやらである。
その日、3月26日に国際プロレスが開催する「‘74チャレンジシリーズ」で凱旋帰国する大剛鉄之助が交通事故で重傷を負ってリングにたてないといったショッキングな話をきいたし、ヤス藤井が何故か会場にきていたのですよぉぉぉ
試合は猪木のフェイク、掟破りのこめかみを狙ったひじ打ちで国際プロレスとの格差をみせつけたが、このときのレフェリーも何故か清見川、その年の12月12日の蔵前で再戦したときのレフェリーがコシキ・ジン。
冒頭のミスジャッジで盛り上げるために呼ばれたのではないかと、、、
最近のことは忘れがちであるが、昔のことは記憶鮮明(笑)
昭和49年12月12日の再戦時、特別仕様のパンフレットでしたが、闘魂シリーズ第2弾に特別参加したアーニー・ラッドとザ・シークの紹介を差し替えたもので、なんとストロング小林が2頁、猪木と坂口が各1頁、そしてこの日の勝者を予測するクイズが行われていて、商品は豪華でしたね。
柳の下の泥鰌で、盛り上げようとしたのでしょうが、新日本に引き抜かれたのは衆目の一致するところで、どうするのかなぁと思っていたら、年明けに小林選手は「内部から新日本を研究したい」とフリー参戦、理由が笑えましたね。
左が通常仕様、右が12・12仕様 シリーズの日程表と大阪での対戦カードとクイズの賞品が豪華!
クイズが3問で簡単、開幕の挨拶、シリーズの展望は鈴木庄一
鈴木記者は酔うと寝てしまって小便を垂れ流すというところから、鈴木しょんべんと関係者からネーミングされていたって、ききましたがw
左がシリーズ通常版での特別参加、右は小林選手に差し替えられていましたね。
アンドレとジョン・トロスも特別参加、ピンパネールとGマレンコは通好み、
PPチョイスはボビー・キャッシュとして新日本に初来日、日本帰りは出世するといったところ、、、
一方、エースだった小林離脱で苦境にたった国際プロレスはジャイアント馬場さんが助っ人参戦、、、
これって三国志のような話ですね。
吉原社長の挨拶では「小林の行動は、子供に裏切られた親の心境」といった言葉が泣かせるが、、、、
馬場さんの特別参加によって、興業的にはよかったらしいが、いざとなれば、ノーTVでもやっていけると勘違いしたのでしょうか、、、
ノーTVだったので、この時の外人選手のファイトは残念ながら未見!
グレート草津を中心にしているが、草津は練習熱心ではなく、小林離脱の戦犯といわれていて、そもそも吉原社長の草津偏重が国際崩壊の予兆だったんだなぁ、これが、、、
残念だったのは、大剛鉄之助が凱旋帰国できなかったこと。
指1本で腕立て伏せができるって聞いていたのですが、、、
この当時、海外修行していた八木宏、剛竜馬に改名し、新日本へ転出することに、、
いやぁ、まいったなぁ
この年がターニングポイントで、流智美さんは「日本プロレス70年史」で「東京スポーツ新聞社による第1回プロレス大賞が制定され」と受賞者を紹介し、「以降、日本の3団体が一堂に会する、年間唯一の行事として定着する。」と記録しているが、この年以降の東スポ大賞についての記録はない、、、流石ですね、、、
この年、東スポは歴史を変えたのかもしれないが、最近では「僕は東スポは買わない」なんちゃって、、、