橿原神宮駅から明日香周遊バス「赤かめ」で飛鳥大仏バス停で下車して約3分の飛鳥坐神社にやって来ました。
鳥居の前には飛鳥井がありました。
木札には「飛鳥井に宿りはすべし をけかけもよし 御水もよし 御秣もよし」
催馬楽詞(平安時代、民謡を雅楽風に編曲したもの)に水の清らかさを讚えて歌われています。と書いてました。
扁額は飛鳥社
「由緒」
当神社の創建は定かではありませんが、古典によりますと、当社御祭神の事代主神は「大国主神の第一子で、国譲りの際信頼を受け、父神のご相談にのられました。その後、首渠神(ひとごのかみ)として八十万の神々を統率し高市に集まり、この天高市(飛鳥)に鎮まりました」とあります。また先代旧事本紀には「大己貴神(大国主神)は高津姫神を娶って一男一女を生み、その御子神である事代主神が高市社である甘南備飛鳥社に鎮座されている」と記載されています。なお高市とは「うてなの斎場(いつにわ)」と呼ばれ、「小高い所にあるまつりの庭」を意味するといわれています。
また、万葉集の中でも「飛鳥の神奈備」は人々の信仰も篤く「手向けの山」として数多く謳われています。
日本紀略によれば、天長6年(829)高市郡賀美郷にある神奈備山から、同郡同郷である、現在の地(鳥形山)に神託によって遷座されたことが記載されています。また、延喜式神名帳には「飛鳥社四座並びに名神大、月次、新嘗、相嘗」と記され、当時の神社の格付けの中で上位に置かれていたことが伺えます。
古代より、国・民の重要な守護神として、この飛鳥に鎮まる当社には氏子はなく、創始以来代々お護りしてきた神主家は、神主太比古命が崇神天皇おり「大神臣飛鳥値(おおみわのあそんあすかのあたい)」の氏姓を賜り、「飛鳥」の姓で今に至っております。初代は、天事代主神から数えて7世に当たることが「世系図」や「新撰氏姓録」に記され、現在の宮司は87代目に当たります。
飛鳥坐神社の御朱印頂きました。
次は飛鳥寺へ向かいます。