新熊野神社から豊国神社へ向かう途中、三十三間堂、智積院、京都国立博物館などを横目にしながら歩くこと約15分🚶🚶🚶
しかし、「大坂夏の陣」で豊臣氏が滅亡した後には徳川家康の意向によって廃絶が決定し、それ以後は朽ち果てるまで放置され続けたそうです。

明治元年(1868年)に明治天皇より「豊臣秀吉は天下統一しながらも、幕府を開かなかった尊皇の功臣である」と讃えられると共に豊国神社の再興が命じられ、明治13年(1880年)に社殿が完成して復興を遂げ、現在に至るとされています。

豊臣家の家紋の五七の桐

唐門

唐門は桃山時代のものにで、伏見城の城門だったと伝えられています。伏見城が廃された後は二条城に移され、さらに南禅寺の塔頭・金地院へ、そして明治に入ってから豊国神社に移築されたました。

名工・左甚五郎作の目無しの鶴は、その名の通り鶴に目玉がありません。これは、あまりにこの鶴の出来が良かったので、目を入れて完成させてしまうと本当の鶴になって逃げられてしまうと考えられたためです。

唐門から先は入ることはできません。
唐門から見た拝殿と本殿です。
唐門の扉の下の方には「鯉の滝登り」の彫刻が施されていますが…
暗く写ってよく見えません😅
あと何枚か撮っとくべきでした。😣

豊国神社のご利益は「出世祈願」「勝運祈願」「開運招福」農民から天下人になった秀吉ですから納得できます。

槙本稲荷神社

境内の左に鐘楼を見つけたので歩みよると
これは方向寺の鐘楼でした。

この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘に家康は「家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの」だといちゃもんをつけて、(鐘銘事件)大坂冬の陣の引き金となり、豊臣家の滅亡のきっかけになったそうです。

鐘楼の天井画は、極楽浄土に住むと言われている想像上の鳥の迦陵頻伽(かりょうびんが)です。

豊国神社の御朱印頂きました。
豊国大明神の墨書きです。
豊国神社の印に「出世開運」と入っています。

京都刀剣御朱印めぐり(第6弾)
骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう)の御朱印頂きました。

これで藤森神社の鶴丸国永(つるまるくになが)建勲神社の宗三左文字(そうざさもんじ)薬研藤四郎(やげんとうしろう)は頂いてますので、残すは粟田神社の三日月宗近(みかづきむねちか)一期一振(いちごひとふり)だけです。
豊国神社から粟田神社へ向かうのですが、途中の清水寺へまずは向かいます。🚶🚶🚶