小学校5年生(1972年)の夏、父が経営していた会社が倒産しました
1972年は、沖縄が日本に返還され、日中国交正常化でパンダが来日し、札幌オリンピックが開催された年です
浅間山荘事件や横井庄一さんが日本に帰還したのもこの年です







当時の私は倒産というものがどういうことか全く分かっていませんでした
それでも
小学校の林間学校に行けなくなったり
六畳一間に一家4人で住むようになったり
兄は入学したばかり高校を退学して働き始めたり
父の借金の債権者であるアパートの大家さんの家の前を毎朝掃除しなければならなくなったりして
我が家は大変なことになったのだと実感しました


時には大家さんに両親と共に呼び出され散々厳しい言葉を掛けられたり
六畳一間の我が家に借金取りが押し掛け警察を呼ぶ騒ぎになったこともありました

この頃から私の記憶は
借金取りや居留守や夜逃げのような引っ越しや
そんなことばかりが増えていきます
そして楽しい記憶は殆ど残っていません

『悲しい記憶の数ばかり
 飽和の量より増えたなら
 忘れるよりほかないじゃありませんか』

これは中島みゆきさんの“傾斜”という歌の一節です
正にその通りだと思います

幼い私に当時の突然の変化はどうすることも出来ません
何があってもただ我慢するだけです
そして出来ることは忘れることだけだったのだと思います
それが、自分を守るための唯一の方法だったのだと思います


両親が大変なことは良く分かっていました
兄も突然高校をやめて働きに出ざるを得ませんでした
だから自分は何があっても我慢しなければいけない
それが、両親や兄の為に自分が出来るただ一つのことだと思っていました

と言っても当時の私が明確にその事を意識していたわけではありません
今振り返ればそういう心境だったのだろうと推測するのです

“親に心配を掛けてはいけない”
“何があっても我慢しなければいけない”
“自分が我慢することで波風が立たないならそれが一番だ”
そんな考えがこれ以降の自分を支配していったように思います


私と同じように子供の頃の記憶が無い人は結構いらっしゃいます


“記憶を失くす”ということが
当時無力だった子供にとって唯一出来る自衛手段だったのだと思います
同じように
“何も言わずに我慢する”というのも
自分を守るための手段だったのだと思います


ただ困ったことに
子供の頃に自分を守るために身に付けたものは
成長して必要なくなったにも関わらず
手放すことが出来ません
何故なら、自分自身がそれを自分を守る為に身に付けたものだと認識していないからです


“自分の意見を言ってはいけない、それは我が儘だ
“我が儘は悪だ”
“親に心配を掛けるなんてもってのほか”
子供の頃からこれが常態だった人は
これが当たり前
これが社会の常識
世の中の人全てがそう思っている
でも本当は
自分が子供の頃に自分を守る為に必死で身に付けた特別な防具なんです
そのことに大きくなっても全く気付いていなかったのです






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