近年、世相のサイクルがますます短くなっているようだ。

特に「スマホ」なるものが流行してからは、スピードが

半端ではない。何でもカンでもスマホで済ませてしまう

世の中になった。

 

 「スマホ 恐るべし」である。

 

 しかし、スマホのクビキから逃れ、流行から取り残された

僻遠の身としては、右往左往することもなく安穏としている。

そんなこんなしていたら、田植えの写真が見つかった。

それも、苗代から稲苗を「カガリ取る」写真である。

 

 かつて、田植えは手作業であった。苗は苗代で育成している。

田植えの日には、苗をカガリ(採取)取って束にする。苗代の

作業をするのは高齢の御婦人たちである。束ねられた苗を

運ぶのは子供の仕事と決まっていた。

 

 子供たちは苗束を両手に下げて、田んぼまで運び、投げ入れる。

高く投げると根の方が重いのでウマく着地する。苗を植える時に

過不足がないように塩梅よく放り投げた。足りない場合は多い

所の苗で調整したりした。 苗を投げるのは面白かった。

 

 かつて対馬では村の合図に法螺貝が

用いられていました。電気などのなかった

中世以来、長い時代の伝統でした。

 村によっては「ケー(貝)吹き壇」もありやした。

話は脱線しますが、ホラを拭く人は絶えないようです。

 

 「竜宮城は対馬にあった」と言えば「そんなアホな」と

思われるかもしれません。しかし、古文書にはハッキリと

記述されています。しかも海中ではなくて対馬のどこかに。

 

 これまで、竜宮城というと浦島太郎が助けた亀に連れられて

乙姫様のいる海中の城に行くストーリーが広く知られています。

しかし、海中の城は現実的ではありません。おとぎ話です。

 

 ところが対馬の竜宮城は夢物語ではなく実在したと考えられます。

宗像大社の縁起に具体的に記述されているので、モー大変です。

対馬と縁のある、神功皇后が三韓征伐に向かった時の物語でした。

 

  皇后は四十八隻の船に三百七十五人を乗せて出港。舵取りは

  安曇磯良です。対馬に到着した皇后は、豊姫を竜宮城に

  遣わして乾珠と満珠を借りました。その珠を借りたことで、

  皇后は戦に勝利したのです。

 

とあります。

 

 皇后が到着したのは対馬の東海岸と想像されます。それというのも

厳原に白石神社があり神功皇后伝説があります。三韓征伐に向かう時、

皇后は妊娠していたのです。そのため下船して海岸にあった白石に腹を

当てて出産を遅らせたそうです。また小石を衣に挟んで出陣しました。

 

 皇后は勝利しますが、その裏には竜宮城から借りた珠と腹を白石で

冷やすなど対馬の大きな支えがあったことを忘れてはいけません。

皇后は九州で無事に赤ちゃんを出産します。後の応神天皇です。

応神天皇は対馬で生まれても不思議ではありませんでした。

 

 宇美八幡宮では皇后が衣に挟んだ小石を御神体にしているそうです。

宇佐八幡宮の祭神は応神天皇や神功皇后などです。ところがです、

対馬は神功皇后とは密接な関係があるにもかかわらず伝説などには

無頓着になっています。

 

 島に竜宮城があったことを知る人はいません。モッタイナイことです。

宣伝のために、竜宮城と豊姫、二つの珠をイラストにしてくれる御仁が

いらっしゃると嬉しいのですが。

 

   

 かつて、農家の田植え作業はほとんどが手作業でした。

しかも田植え作業は一斉に行われます。そのため親類や隣近所と

「カセイ」や「カタヨリ」などを調整して段取りをしていました。

 

 手で植える田植えは重労働です。途中で休憩して「コビルマ」に

します。今でいう「おやつ」でしょうか。広場で輪になって食べる

オニギリなどはウマイのです。そして四方山話に花を咲かせます。

 

 豊玉町西海岸の小さな漁村、銘は中世の習俗を

色濃く残していた。それは小綱から一本道でがっており

行き止まりの地区という地理的要因もあり用件のある人

以外はことはないのだ。

 

 かつて旧家の小屋には刀が70振も所蔵されていたという。

その小屋の鍵は側近の家臣が預かっており、主人も勝手に

小屋を開けなかった。刀は年に一度、土用干しされていた

そうだ。その中に「コンゴウビョウエ」という

名刀が桐の箱に納めてあった。

 

 集落の北側の丘を越えた浦をカンヤリという。

その海岸に雨乞いの際に限り使用された祭壇ある。

大きな自然石の上部に石が積み上げられ神職が祈祷をしたそうだ。

 

    雨乞いの祭壇