対馬も車社会になって久しい。ちょっと出かけるにもハンドルを

握るのが癖になってしまった。「田畑道」「磯道」「山道」などの

地面を歩くことがめっきり少なくなっている。

 

 その結果、路傍に佇む石仏に参拝する伝統的な慣習も廃れている。

峠のお地蔵様には野花や小枝などを供え使用していた杖を奉納する。

地蔵尊は往来する住民の安全を守り村の安穏を支えてきた。

 

 島の地蔵様は粗削りで小ぶり、しかも朴訥な表情で風土に馴染んでいる。

ところが以前、対馬を特集した雑誌をめくると「少女像」ともいえる

石仏が掲載されている。両手を合わせて祈る姿は洗練された容姿で

気高ささえ感じさせる。

 

 多くの石仏を見てきたが「少女像」は島には馴染まない美しさがある。

参拝したいと思うが安置場所は記載されていない。知人にも問い合わせたが

不明だった。島のどこかにあるはずの謎多きお地蔵様である。

 

 いつ頃、誰が、何のために安置したのか知りたいこのごろである。

実物を拝見して静かに語りかけたいと夢見ている。

知っている方はご教示を願いたい。

 

                 少女像

 島の東海岸、美津島町小船越の南方に無住の地「シトロ」は位置する。

そこは万関橋を過ぎて国道を北上するとやがて小さな入り江の傍に出る。

西側は小川が延びている。山を越えると浅茅湾で大山地区になる。

 

 シトロは小船越領で郷土誌の字名では「大志度路東平」「大志度路西平」

「小志度路」などが記載されている。国土地理院の地図には入り江については

「志土路浦」としている。まあ、適当に漢字を当てた結果であろうか。

 

 ところが「シトロ」の地名は意外に古く『日本書紀』の顕宗天皇三年の

条に「帯山城(シトロムレ)を築きて東道を距(ふせ)き守る」とある。

この場合のシトロは対馬ではなく韓国全羅北道井邑市泰仁とされている。

 

 古代朝鮮には「シトロ」の地名があり、対馬にもシトロの地名が受け継がれて

いる。古代には朝鮮半島と対馬は交流があり同一の言語が用いられていたことに

なると想像している。韓国のシトロの地を訪れてみたいと願うこのごろである。

   

 かつて小船越から大山に続く道路は尾根沿いにあった。小船越集落西側の

国道から山道を登ると東西の湾が見通せる頂に着く。火立隈(ほたてのくま)

という。伝説では、沖に殿様の船が見えたら狼煙をあげた場所という。

 

 稜線をなぞるように続く山道は大山まで延び、島の地峡部を往来する

人馬にとっては唯一の基幹道であった。山道が大山の集落に到る付近から東方に

枝道が分岐してシトロ至る。また小船越から海辺の道もあった。

 

 さてシトロの意味であるが切羽詰まった頭を叩いてみたが難解で解らない。

困って支途(しと)を辞書で紐解くと「枝道」などとある。また、シトロは

水資源が豊富で旱魃時には小船越や鴨居瀬などから伝馬船で運んだそうである。

 

 

 ただ、『日本書紀』には、「帯山城を築きて・・」とあることから土塁とか柵などの

施設だった可能性も考えられる。大山の浅茅(あさじ)山は古城があり石積みも

残っている。シトロとは城の搦め手かもしれない。? もう脳内で絡みあって

収拾がつかずボンクラ頭をひねっている。

 

 

 

 

 黒潮洗う対馬には多くの岬がありそれぞれに名称をもつ。

その中で謎めいた地名峰町木坂の飛崎について調べてみた。すると

江戸時代に編纂された『津島紀事』に決定的なヒントを見つけた。

 

 それによると、

  相伝テ云ウ。古ヘ飛崎ト名ク 飛トハ者 船ヲ発スル之古語

とある。この説に従えば飛崎とは、島を出発する船の航海安全を

祈祷したり見送る人々の参集する場所であったと考えられる。

 

 また江戸時代には、対馬から朝鮮半島の和(倭)館に急用で派遣する

際に用いる「飛舟」があった。和船に多くの櫓をたて荒天をもかまわず

水夫たちは波を切って突き進んだ。アゴ(トビウオ)のようなスピード

だったろう。

 

 厳原町阿連の入り江の南北の岬には祠があって祭祀が行われていた。

北側を阿連(アイ)崎といい先端部に祠が鎮まっていた。近年は祭祀は

簡略化されている。瀬祭りには船上から祭祀を行っているという。

 

 一方、南側の大野崎は祭祀場として古い歴史をもつ。美津島町加志の

太祝詞神社は大野崎がルーツと伝わる。阿連から朝鮮半島を経由して

中国に向かう船の航海安全などを祈祷する住民らは大野崎に参集した。

阿連と中国間には航路があり留学から帰国する最澄は阿連に寄港している。

 

 厳原町内院には、飛坂がある。伝説によると天道法師は京都に向かう際に

飛坂から空を飛んで壱岐島の小城、さらに筑前の宝満嶽、そして京都に着いた

されている。かつて飛坂は住民が出発する船の見送り場であったろう。

小高い丘から水平線に船影が消えるまで見守っていたのであろう。

 

 海中に突出した岬は、いろんな意味で境界であった。人と神、生と死、

外国との出入り口、などである。

 

 

 対馬市西海岸、厳原町阿連は「神々の里」と言われる村里である。

研究者の中には「対馬神道のメッカ」と強調する人さえいる古い文化を

継承する自然豊かな集落。かつて阿連には「神様の通り道」があり

大切に守られていた。

 

 昔は墓地は海岸にあり、祖霊は海中に鎮まっていると信じられていた。

そして村祭りなどには故郷の子孫の家に里帰りしていたのである。

その際、祖霊は集落にほど近い岬の先端部に漂着している。

 

 里人は祖霊の漂着地を「寄神(よりがみ)」と呼び大切にして祠を祀っている。

阿連では寄神崎から氏神様まで続く神様専用の道が設けられていた。その道は

神様の通り道なので住民が通ることは許されなかつた。住民は通り道を

「潮かき道」と呼んでいた。潮かきとは垢離(こり)のことをいう。

 

 ところが寄神崎から神社に通じる神様の道は尾根沿いにあったので隣の地区に

向かう場合は道を横切るので神様に「お断り」をしてその都度に許可をもらった。

それでも不便なので尾根の開削を計画した。しかし利便性は向上するが神様の道が

断絶することになるので敢えて困難なトンネルにしたのであろう。

 

 幸い、隣接する佐須地区には日本最古級の鉱山が開かれたことから住民は坑道

掘削技術は会得していた。それで「神様の通り道」を穢さないために隧道の建設を

厭わなかったのだ。その神様を尊崇する住民の心根は称賛に値する。流石は

「神々の里」である。神様の通り道の伝承は全国的にも希少という。

 

  ただし、車社会の現在は道路が建設され神様の通り道は分断されている。

 

    神様の通り道の下にあったトンネル 

     波多野勝彦著 『対馬紀行』より

 

 文久元年(1861)年、ロシアの軍艦ポサドニック号が

対馬昼ケ浦の芋﨑を占拠しました。当時の絵図によると

宿舎としての本小屋や鍛冶屋、大工小屋、波止などが

作られています。

 そして、台場も描かれている。これまで絵図の存在を

知る人は少なく「井戸」のみが遺跡とされてきた。