文久元年(1861)年、ロシアの軍艦ポサドニック号が
対馬昼ケ浦の芋﨑を占拠しました。当時の絵図によると
宿舎としての本小屋や鍛冶屋、大工小屋、波止などが
作られています。
そして、台場も描かれている。これまで絵図の存在を
知る人は少なく「井戸」のみが遺跡とされてきた。
文久元年(1861)年、ロシアの軍艦ポサドニック号が
対馬昼ケ浦の芋﨑を占拠しました。当時の絵図によると
宿舎としての本小屋や鍛冶屋、大工小屋、波止などが
作られています。
そして、台場も描かれている。これまで絵図の存在を
知る人は少なく「井戸」のみが遺跡とされてきた。
対馬市美津島町加志京ノ原に鎮座する太祝詞神社で
10月29日(旧暦9月9日)、大祭があり「命婦の舞」
などが奉納された。同社は律令時代に「封戸(ふこ)」を
与えられた記録があり対馬で最も歴史のある神社。
封戸とは、古代日本において貴族や寺社などに与えられた
俸禄制度の一つで、特定の公民の戸を支給したという。
対馬において封戸が与えられた記録は太祝詞神社が唯一。
『新抄格勅符』の神封部の条には、大同元年(806)、
対馬嶋の太祝詞神に二戸を与えられていたという記録がある。
因みに宗像神には七十四戸、壱岐嶋の大社神は一戸とされている。
宮司は橘氏が世襲しており古代に阿連から遷宮したと伝わる。
伝説によると、最初、神様は阿連の大野崎に鎮まっていたが集落上流の
ドンクマに移り、更に宮司壇、その後に加志に遷宮したという。
古代の阿連は朝鮮半島南西部や中国との間に航路が開設されていたと
考えられる。そのことを物語るように、延歴24年(805)6月の条に
遣唐使第一船、六月五日、対馬島下県郡阿礼村に到る。
とある。阿礼は現在の阿連で、封戸の支給と関連があるかもしれない。
遣唐使船には伝教大師(最澄)も乗船しており阿連には「伝教大師
入唐帰国着船の地」の顕彰碑が建立されている。また最近、伝教大師像が
顕彰碑に隣接して設置された。阿連には「湊(みなと)」の地名があり
古くは国際港であった。
それ以前の太祝詞神社は阿連南側の大野崎にあり、中国や朝鮮半島
南西部に向かう船の航海安全を祈願していたのであろう。国際航路が
閉された後、港の機能が衰退し同神社は加志に移ったとみられる。
加志は一時期、おおいに栄えた。大宰府との間に航路が開設されて
いたようである。航路沿いの各地には志賀神社が勧請されている。
基点の福岡市志賀海神社から壱岐勝本町の志賀神社、対馬厳原町の
志賀神社、美津島町小船越の志賀神社、同町加志の志賀神社と
結ばれ終点は加志。志賀神社は航海安全を守護した神様である。
加志の太祝詞神社は時代を超えて大切にされた。境内は
「京(きょう)の原」と呼ばれ、モミジやカヤ、ケヤキなどの
大木が根を張っている。特にモミジの巨木は圧巻で紅葉の頃は
「京の雅」が楽しめる。
それだけではない。太祝詞神社はツシマヒメボタルの隠れた名所で
ある。シーズンの深夜には無数のホタルが飛び交い幽玄の世界を
創出する。ホタルは太祝詞神社の神霊といえようか。
太祝詞神社
奉納された命婦の舞
猛暑の続いた夏も終わり、やっと秋が訪れて朝夕はめっきり涼しくなった。
そんなこともあって『太宰府市誌』を何気なくパラパラとめくってみた。
すると、古い資料に惟宗資国という気になる名が目を引いた。
とっさに頭に浮かんだのは宗助国と惟宗資国は同一人物ではないか、
という疑問であった。対馬の守護代だった宗助国は国難ともいえる
「元寇」では手勢八十余騎を率いて迎撃し壮烈な死を遂げている。
宗助国は合戦時、かなり高齢だったという伝説もある。しかも老体に
鞭打って蒙古の大軍に立ち向かい玉砕したという。住民は彼を軍神として
尊崇し、古戦場とされる小茂田浜には神社が創建され祭神として祀られた。
一方、惟宗資国については、「康元元年(1256)4月29日の春の
除目(じもく)後の直物行われる」。その中に惟宗資国の名が見える。
〔経俊卿記〕には
左兵衛尉 惟宗資国
とある。
惟宗資国は大宰府の官人で朝廷から位階を授けられていたのである。
しかも、太宰府の少弐氏当主から偏諱(へんき)を拝領した可能性が高い。
太宰少弐の官職だった武藤氏は代々少弐氏を称している。
武藤氏当主などは何故か資頼、資能、経資など、名に資を多く用いており
功績のあった惟宗氏に諱の「資」を授けた可能性も考えられる。主人の名の
一字を与えられることは大変栄誉なこととされている。
ややこしくしているのは、少弐(武藤)氏が大宰府少弐でありながら
鎌倉幕府の守護職などをしていた時期があることであろう。まさに
一人二役で朝廷の役人と幕府守護を司っていたのである。
そのため配下である惟宗氏も宗氏を名乗る必要に迫られたのではなかろうか。
対馬に残る文書では、文永11年(1274)の元の襲来に際し幕府守護代の
宗助国は蒙古の軍勢と戦っている。しかし、大宰府官人の惟宗資国は対馬の在庁に
対しどのように指揮していたかは不明である。
宗助国と惟宗資国が同一人物かどうかは現時点では確証がない。
今後の研究課題であろう。
小茂田浜神社祭典の武者行列
対馬市北西、上県町佐護恵古の市道沿いにオープンした
レストラン「ごはん処 あび米(まい)」は、ご飯が美味しいと
評判。メニューも豊富で遠来のお客さんも多いという。
美味しさの訳は、古来より自然豊かな佐護で栽培される米にあった。
生産された米は「佐護米」と呼ばれブランド化されている。その上、
同居する両親は米農家で新鮮な米を必要な時に入手できるのが強み。
しかも佐護米は自家用倉庫に籾米で保管されており必要に応じて
その都度、精米される。ご飯が美味しい秘密は精米したての佐護米
だった。精米される米は呼吸している超新鮮な米である。
オーナーシェフの阿比留さんは福岡市で飲食店を経営していたが、
Uターンした。佐護米の美味しさを引き出そうと日々、腕を振るう。
新米の美味しい季節になった。
定休日 木曜日
営業時間 11:00~15:00
電話番号 080-8379-2931(予約も可)
駐車場 8台
希望者には「佐護米」も販売している。
「あび米」の店内
黒潮洗う対馬は古来より大陸との交流の接点として重要な役割を担ってきた。
古代の交流などは記録されることは希少で、そのほとんどは忘却されている。
それでも地名は庶民の生活習俗や信仰、生業などを知る手がかりを提供する。
古代から中世にかけて対馬と宗像には活発な交流があったことを地名は
教えてくれる。双方の地名を探ってみたい。
〇 對馬見山 津屋崎町に對馬見山がある。古代には山頂に住民が参集し対馬に
向かう船の航海安全を祈願したのであろう。また宗像に入港する
船影を見つけると山麓の住民に知らせ歓迎の準備を急いだであろう。
〇 白岳 玄界灘に浮かぶ神宿る島「沖ノ島」に白岳が鎮座することを知る人は
以外にも少ない。島には一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と続きその先に
白岳がある。古代から白岳は航路標識の山で、宗像と沖ノ島を結ぶ
延長線上に上対馬町小鹿に白嶽がある。
〇 奈良 神湊町に奈良の地名を見つけた。奈良とは「役所」の意味とされ
対馬でも上県町鹿見(ししみ)や同町仁田にもある。
〇 天道 旧神興村に天道(てんどう)の地名が残る。対馬の天道信仰との関係
については調べてないが関心をもっている。
〇 加代 旧大島村に加代(かしろ)がある。上県町佐護には加城(かしろ)壇
があり中世には加城氏がいたという。
〇 田久 対馬各地には複数の多久都魂神社が鎮座している。 田久と多久とは
共に「タク」で同義と愚考している。田久には田久松ケ浦遺跡があり
朝鮮半島との交流を物語る遺物が出土したという。古くから交流の
拠点として栄えていた可能性もある。田久氏という有力者もいたと
いう。
〇 綿打 旧吉武村にある綿打(わたうち)は対馬の和多都美(わたつみ)神社
関連があると睨んでいる。美津島町濃部には海岸の綿打河内には古い
祠が祀られている。古い海の神様であろう。
〇 入道 入道とは伝染病などの患者を隔離した施設のことで人里離れた
静かな場所に設置されていた。入道は宗像にも対馬にも確認できた。
〇 矢櫃 矢櫃は弓矢の矢を収納する細長い筒状の容器。そのような地形に
矢櫃と命名されている。対馬市上対馬町の矢櫃は深い入り江で
朝鮮半島に向かう船の停泊地であった。
〇 田島 宗像大社付近の地名を田島(たしま)という。田島の地名は神社と関
連がありそうで福岡市南区や佐賀県呼子町加部島に田島神社が鎮座
している。壱岐市石田町にも田嶋神社が鎮座する。対馬上県町佐護田
島には八幡壇があり神社跡という。各地の田島を結ぶと古代の交易ル
ートが浮かび上がる。
〇 大平井 平(ひら)の語意は「たいら」とされているが、他にも意味があり
そうだ。対馬には平の地名は多く、祭祀場や祭壇、聖地などの地も
確認している。大平は大勢が参集する地といえ、対馬では
大平山の頂上で嶽祭をしている集落もある。
宗像には、高平や平田、平原、平尾などの地名を確認できた。
〇 曲 宗像大社の上流に「曲」の集落がある。現在は海岸線から離れている
が中世には海辺の集落だったようだ。海女さんの里「鐘崎」にも近く
本貫の地だった可能性もある。不思議なことに宗像市に「梅野」姓は
確認できなかった。曲の地名は石川県の七尾湾にも確認できた。海女
さんとの関連が考えられる。
上対馬町小鹿の白嶽