黒潮洗う対馬には多くの岬がありそれぞれに名称をもつ。

その中で謎めいた地名峰町木坂の飛崎について調べてみた。すると

江戸時代に編纂された『津島紀事』に決定的なヒントを見つけた。

 

 それによると、

  相伝テ云ウ。古ヘ飛崎ト名ク 飛トハ者 船ヲ発スル之古語

とある。この説に従えば飛崎とは、島を出発する船の航海安全を

祈祷したり見送る人々の参集する場所であったと考えられる。

 

 また江戸時代には、対馬から朝鮮半島の和(倭)館に急用で派遣する

際に用いる「飛舟」があった。和船に多くの櫓をたて荒天をもかまわず

水夫たちは波を切って突き進んだ。アゴ(トビウオ)のようなスピード

だったろう。

 

 厳原町阿連の入り江の南北の岬には祠があって祭祀が行われていた。

北側を阿連(アイ)崎といい先端部に祠が鎮まっていた。近年は祭祀は

簡略化されている。瀬祭りには船上から祭祀を行っているという。

 

 一方、南側の大野崎は祭祀場として古い歴史をもつ。美津島町加志の

太祝詞神社は大野崎がルーツと伝わる。阿連から朝鮮半島を経由して

中国に向かう船の航海安全などを祈祷する住民らは大野崎に参集した。

阿連と中国間には航路があり留学から帰国する最澄は阿連に寄港している。

 

 厳原町内院には、飛坂がある。伝説によると天道法師は京都に向かう際に

飛坂から空を飛んで壱岐島の小城、さらに筑前の宝満嶽、そして京都に着いた

されている。かつて飛坂は住民が出発する船の見送り場であったろう。

小高い丘から水平線に船影が消えるまで見守っていたのであろう。

 

 海中に突出した岬は、いろんな意味で境界であった。人と神、生と死、

外国との出入り口、などである。

 

 

 対馬市西海岸、厳原町阿連は「神々の里」と言われる村里である。

研究者の中には「対馬神道のメッカ」と強調する人さえいる古い文化を

継承する自然豊かな集落。かつて阿連には「神様の通り道」があり

大切に守られていた。

 

 昔は墓地は海岸にあり、祖霊は海中に鎮まっていると信じられていた。

そして村祭りなどには故郷の子孫の家に里帰りしていたのである。

その際、祖霊は集落にほど近い岬の先端部に漂着している。

 

 里人は祖霊の漂着地を「寄神(よりがみ)」と呼び大切にして祠を祀っている。

阿連では寄神崎から氏神様まで続く神様専用の道が設けられていた。その道は

神様の通り道なので住民が通ることは許されなかつた。住民は通り道を

「潮かき道」と呼んでいた。潮かきとは垢離(こり)のことをいう。

 

 ところが寄神崎から神社に通じる神様の道は尾根沿いにあったので隣の地区に

向かう場合は道を横切るので神様に「お断り」をしてその都度に許可をもらった。

それでも不便なので尾根の開削を計画した。しかし利便性は向上するが神様の道が

断絶することになるので敢えて困難なトンネルにしたのであろう。

 

 幸い、隣接する佐須地区には日本最古級の鉱山が開かれたことから住民は坑道

掘削技術は会得していた。それで「神様の通り道」を穢さないために隧道の建設を

厭わなかったのだ。その神様を尊崇する住民の心根は称賛に値する。流石は

「神々の里」である。神様の通り道の伝承は全国的にも希少という。

 

  ただし、車社会の現在は道路が建設され神様の通り道は分断されている。

 

    神様の通り道の下にあったトンネル 

     波多野勝彦著 『対馬紀行』より

 

 文久元年(1861)年、ロシアの軍艦ポサドニック号が

対馬昼ケ浦の芋﨑を占拠しました。当時の絵図によると

宿舎としての本小屋や鍛冶屋、大工小屋、波止などが

作られています。

 そして、台場も描かれている。これまで絵図の存在を

知る人は少なく「井戸」のみが遺跡とされてきた。

 

 

 対馬市美津島町加志京ノ原に鎮座する太祝詞神社で

10月29日(旧暦9月9日)、大祭があり「命婦の舞」

などが奉納された。同社は律令時代に「封戸(ふこ)」を

与えられた記録があり対馬で最も歴史のある神社。

 

 封戸とは、古代日本において貴族や寺社などに与えられた

俸禄制度の一つで、特定の公民の戸を支給したという。

対馬において封戸が与えられた記録は太祝詞神社が唯一。

 

 『新抄格勅符』の神封部の条には、大同元年(806)、

対馬嶋の太祝詞神に二戸を与えられていたという記録がある。

因みに宗像神には七十四戸、壱岐嶋の大社神は一戸とされている。

 

 宮司は橘氏が世襲しており古代に阿連から遷宮したと伝わる。

伝説によると、最初、神様は阿連の大野崎に鎮まっていたが集落上流の

ドンクマに移り、更に宮司壇、その後に加志に遷宮したという。

 

 古代の阿連は朝鮮半島南西部や中国との間に航路が開設されていたと

考えられる。そのことを物語るように、延歴24年(805)6月の条に

  遣唐使第一船、六月五日、対馬島下県郡阿礼村に到る。

とある。阿礼は現在の阿連で、封戸の支給と関連があるかもしれない。

 

 遣唐使船には伝教大師(最澄)も乗船しており阿連には「伝教大師

入唐帰国着船の地」の顕彰碑が建立されている。また最近、伝教大師像が

顕彰碑に隣接して設置された。阿連には「湊(みなと)」の地名があり

古くは国際港であった。

 

 それ以前の太祝詞神社は阿連南側の大野崎にあり、中国や朝鮮半島

南西部に向かう船の航海安全を祈願していたのであろう。国際航路が

閉された後、港の機能が衰退し同神社は加志に移ったとみられる。

 

 加志は一時期、おおいに栄えた。大宰府との間に航路が開設されて

いたようである。航路沿いの各地には志賀神社が勧請されている。

基点の福岡市志賀海神社から壱岐勝本町の志賀神社、対馬厳原町の

志賀神社、美津島町小船越の志賀神社、同町加志の志賀神社と

結ばれ終点は加志。志賀神社は航海安全を守護した神様である。

 

 加志の太祝詞神社は時代を超えて大切にされた。境内は

「京(きょう)の原」と呼ばれ、モミジやカヤ、ケヤキなどの

大木が根を張っている。特にモミジの巨木は圧巻で紅葉の頃は

「京の雅」が楽しめる。

 

 それだけではない。太祝詞神社はツシマヒメボタルの隠れた名所で

ある。シーズンの深夜には無数のホタルが飛び交い幽玄の世界を

創出する。ホタルは太祝詞神社の神霊といえようか。

 

 

        太祝詞神社

 

       奉納された命婦の舞

 

 

 

 

 猛暑の続いた夏も終わり、やっと秋が訪れて朝夕はめっきり涼しくなった。

そんなこともあって『太宰府市誌』を何気なくパラパラとめくってみた。

すると、古い資料に惟宗資国という気になる名が目を引いた。

 

 とっさに頭に浮かんだのは宗助国と惟宗資国は同一人物ではないか、

という疑問であった。対馬の守護代だった宗助国は国難ともいえる

「元寇」では手勢八十余騎を率いて迎撃し壮烈な死を遂げている。

 

 宗助国は合戦時、かなり高齢だったという伝説もある。しかも老体に

鞭打って蒙古の大軍に立ち向かい玉砕したという。住民は彼を軍神として

尊崇し、古戦場とされる小茂田浜には神社が創建され祭神として祀られた。

 

 一方、惟宗資国については、「康元元年(1256)4月29日の春の

除目(じもく)後の直物行われる」。その中に惟宗資国の名が見える。

〔経俊卿記〕には

  左兵衛尉  惟宗資国

とある。

 

 惟宗資国は大宰府の官人で朝廷から位階を授けられていたのである。

しかも、太宰府の少弐氏当主から偏諱(へんき)を拝領した可能性が高い。

太宰少弐の官職だった武藤氏は代々少弐氏を称している。

 

 武藤氏当主などは何故か資頼、資能、経資など、名に資を多く用いており

功績のあった惟宗氏に諱の「資」を授けた可能性も考えられる。主人の名の

一字を与えられることは大変栄誉なこととされている。

 

 ややこしくしているのは、少弐(武藤)氏が大宰府少弐でありながら

鎌倉幕府の守護職などをしていた時期があることであろう。まさに

一人二役で朝廷の役人と幕府守護を司っていたのである。

 

 そのため配下である惟宗氏も宗氏を名乗る必要に迫られたのではなかろうか。

対馬に残る文書では、文永11年(1274)の元の襲来に際し幕府守護代の

宗助国は蒙古の軍勢と戦っている。しかし、大宰府官人の惟宗資国は対馬の在庁に

対しどのように指揮していたかは不明である。

 

 宗助国と惟宗資国が同一人物かどうかは現時点では確証がない。

今後の研究課題であろう。

 

     小茂田浜神社祭典の武者行列