韓国・釜山で開かれた、
ユネスコ世界遺産委員会で、

まさに今日7月26日、


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「飛鳥・藤原の宮都」が、

世界遺産に登録決定した!


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日本国内で27件目の世界遺産。


「飛鳥・藤原の宮都」は、

飛鳥時代の宮殿跡、寺院跡、

高松塚古墳、石舞台古墳など

19の遺跡で構成されている。



このニュースを見た時、

すごく感動したし、嬉しい気持ちになった。

あまりに嬉しくてさっそくブログを書いた。



先日、ブログにも旅行記事を投稿しているけど、

6月に飛鳥に行って来たばかり。

そして、まさに、旅したまさにその場所が、

世界遺産に登録だなんて!!!

タイムリーすぎる!!


そもそも、明日香村旅行は

世界遺産候補だから

行こうと思っていたわけではなく、

正直、旅先で世界遺産の候補だと知った。




でも、もし世界中から観光客がきたら、、

わたしが一人旅で

お邪魔しますって感じで入って行った場所


そこには今の村の人々の生活がある場所だから、

静かさ、のどかさが乱されないといいなぁ。

いとなみがまさに今、ここにあり、

この地を守っている人たちが、

穏やかに生活して行けたらいいなぁ、と思う。



古代と今が入り混じる場所、

あのような場所は他にはないし、

すごい魅力的だと思う。



帰ってからも、また行きたいな、

まわりきれてない場所とか

今度は一日で、ではなく、

何日かかけて色々みたい

なんて思いを馳せている。

それくらい、インパクトがあり、

わたしの中でまた行きたい場所。



世界遺産になる前の姿を見ておけたことも嬉しい。



世界遺産に登録されたら、

保護されるのは間違いないし、

日本の始まりとして認識されて

その意識で日本人が

日本は長く続いてる国なんだなって

誇りを持ったり、

歴史に興味を持ってもらえたら嬉しいなぁ

なんて思ったりもしちゃう。




本当に嬉しい。


もし、今回旅行に行っていなければ、

へぇーすごいねー、日本やるじゃん。

で終わったニュースだったかもしれない。



先日わたしが実際に目にした、

あっ、見たよこれ!

これもそうなんだ!!

が登録されたんだ、と思うと感動もひとしお🥹



ただの情報が、自分ごととなって

わたしと関連する話題として受け止められている。



世界との関わりが増えるほど、

自分ごととして喜べる機会も増えていく。


こうして日常に彩りが増えていく。



旅の後に、日常に帰ってきて

そして、その日常の中で

宝箱を見つけた気分だった。



おめでとう、飛鳥!


また行きたい。

その時は

きっとまた違う景色を

わたしは体験するのだろう。



体験するから事態がうごき

感情などもうごき

思考を刺激することがおきる

選択の機会がでてきて、事象がおきてくる。



地球は行動の星と言われるけど

体験の星。

本質はこちらかな、なんて思う。



体験の連続そのものが、本質だなって。 



今の世の中、便利さが進み

働いたら暮らせるシステムがあり

何か大きな選択をしなくても

毎日過ごしていけてしまう。


あえて何かを選び取る必然性が薄くなる。


そんな、

体験の手前のちいさな体験の中で生きている。


本当は日々体験してると思うけど


特別に感情が動くことも

大きく揺さぶられる選択を

することもなくて 


ただ、安全の枠の中で生きている、

すると、

本質的な体験がなくなってる気がする


本当は、どこか揺さぶられるような

体験もしたいのだろうけど



本質的な体験って、

枠からはみ出す瞬間とか、

予定調和じゃない揺れに触れたときとか、

心を大きく揺さぶられたときに

立ち上がるものなのかもしれないと思うから。




こういうことを思っても、

だからなんだ、で終わる。

思考して消えていく、

日の目を見ない言葉たち。



わたしの体験未満の体験があるからこそ、

出てきた言葉かな



本質的な体験は、壁にぶつかることから起きてくることも多い。

だから、壁にぶつかる人に敬意を抱く。







着物を着るとか、暦を学ぶというような

この、わたしの小さないとなみ、

そのようなことを、

他にも様々な場面で、いろんな人がしていて、

生活や視点の共有になっていく。


こうした、小さないとなみが、

生活を積み上げ文化を支えてきたと思う。

しかし今、その営みをする人が減ってきた。



大きい流れでいえば

文化の伝承とかにも繋がるのだと思う。 


大きな文脈の共有、

例えば着物や神話や、生活スタイルや

古来からの知恵というような、

日本的なものの共有がなくなっていき、


日本人や文化、またそこからうまれる

アイデンティティみたいなものが、

薄まってきてるのかもしれない、

とわたしは感じている。



便利さと引き換えに、

知恵や所作を身体を通さず

体験を通さずに済むようになり、

次の世代に伝わる機会が少なくなっていく。



大事にしていたもの

(神社やお寺とか、ご先祖様を大切にする考え方)とか、 

そのような価値観にまで、

薄れていくような、影響が及ぶ気がして、

わたしはうっすらと危機感を感じている。



生活の中で受け継がれていたことが

学ばないと触れられないものになったこと

に悲観していたけど、

そうでもないのかもしれない。 



文化が失われていくのを見て

悲しむだけでなく、


学び直して、新たな体験にして、

また再発見して、


当たり前に埋もれていた意味に光をあてる


ということは、できるのかもしれない。

まだ、できることはある。



一つの在り方が失われても、

その精神性は、

新たな別の形の体験となり、

受け継がれていくのかもしれない。



わたしのできることから。

さて、次はどの着物を着ようかな。




着物を覚えて一年が経ちました。


だいぶ、着ることにも慣れてきました。


うまく着れていない時は

着物を着る時に、

下を見たりあちこち覗き込んでいたけど


着物が着崩れないのは

着る時、背骨をまっすぐに

姿勢良くして、着ることだと

体感しました。


どうしても慣れないうちは、

ここが揃ってるかなど、あちこち見て

身体をまっすぐに保ちながら着る

ということが難しかったのですが、


慣れてくると、姿勢を崩さずに

まっすぐ立って

着ることができるようになりました。


そうすると、

身体に着物が寄り添ってるかのようで

1日着物が崩れない気がします。



それと、

着物の作りも、

洋服は立体的ですが

着物は直線的です。


だからか、

折り紙のように、直線でしっかり揃えるように

例えばおはしょりなど、他にもいろんなところを

ぐちゃっと適当にするより

丁寧に揃えるようにするほど、

丁寧にするほど、

着崩れないし、着心地が良いと感じるのです。



それに、着る時

自分の背骨、真ん中を意識するから

自分の軸の確認を身体的にもするので


着物を着るという日常の行為そのものが、

自然と姿勢を整え、

自分の軸を意識する時間になっていたのかもしれません。


そう考えると、

着物という文化の合理性に驚かされます。


大袈裟に言うと

着物を着る時間も

自分と向き合う、瞑想のような時間になる

というか、そんな感じがして

奥深さを感じます。


お習字で、字を書く前に

硯で墨をする時間があります。

心を鎮める、静かに整えていく、あの時間。

着物を着る時間にも、

それと共通するものがあるように感じます。



あと、身体的なこととしては

姿勢を維持しながら

帯をしめようとすると


これまた筋トレのような、

いろんな筋肉を使う感じがするので

これは健康的だ!

ラジオ体操に匹敵する運動量か⁈

とも思いました。

着ることに慣れたらこんな運動量と感じないのか、必要な筋肉、筋力がついて平気になるのか。


いずれにせよ

日常ではあまり使わない筋肉を使うので

やはり健康にいい感じがします(笑)



日本の文化って

精神的なことと身体的なことが

うまく繋がるような

そんな感じがしたし、



きちんとした方が心地よく、快適

という構造を採用したからこそ


自然とそれが生活に馴染んでいき、

日常に反映され

勤勉だったり、丁寧だったり、正確だったり

と言われるような

日本人ならではの感性や姿勢、価値観が

育まれてきたのかな

と思いました。



着物を学び、1年が経ちました。

一年が経ったので、振り返ってみると、

だいぶ、着物に慣れてきたような
まだまだなような。

でも、確実に上達したな、なんて、
ひとり満足感に浸ってみたりします。


着物を着ると気分もシャキッとして
気持ちがよいです。


着物は本当に、
機能的ですごいなぁと思います。
着るということでの合理性もすごいのですが
着物の仕立て方も
とても合理的で美しいと思います。


着物を着る以前は
リメイク用の着物を手に入れて
着物を解いて、
ワンピースやスカートを
リメイクしたりしました。


和裁も洋裁も学んだことはなく
ただ趣味で洋服を作っていたのですが
よく布屋さんがたくさんある日暮里に
友達と足を運んでいました。


そこから、服作りに
リメイク用の着物を使ってみようと思ったのです。


その時はまだ、着物の知識はなかったけど
解くとまた一枚の布になるのをみて
なんて合理的だろうと思ったこと

全て直線的に処理していることに
美しさを感じたこと

直線だからこそ、角の揃え方?
みたいなものの細やかさや精密さのようなもの
見事さなどを感じたこと

糸を解く時、縫い目をたどるわけですが
ひと針ひと針が、手で縫われていたんだなぁ
と感じたこと

仕立てた時や、受け継ぐ時のストーリーが
きっとあったんだろう、
どんな方が着ていたのかななんて
思いを馳せたこと


なんの知識もないわたしが
着物を解くだけでも
着物に対してこんなにたくさんの
驚きと感動を覚えたことを
思い出します。


今も、リメイク用の着物が
まだたくさん(笑)あるので
着れるものは、わたしが着物として
着ることにしたものもあり
新しいワクワクになります。

リメイク用のもので、
洋服にしたいものもあるので、
それもリメイクしようと
ワクワクしてます。


反物って長い長方形だけど、
着物を仕立てるとき、
捨てる部分が一切なく
着物をほどいたら
また一枚の反物に戻る
という、
機能的で、かつ合理的。

着物は絹で織られているものが多いですが、

絹は、お蚕さんの命をいただいて作られます。

だからこそ、一枚の布を無駄なく使い切る
という考え方が育まれたのかもしれません。

あるいは、もともと
「もったいない」という精神があったからこそ、
このような仕立てになったのかもしれません。

どちらかわからないけど
いずれにしても、

いつも日本の精神は

何に対しても昔から
使い切る精神があり、
ものに対して
敬意があるように感じます。
一つ一つの扱いが丁寧だと感じます。
いただいた背景(お蚕さんの命をいただくこと)
にも、敬意を払う
思いやりのような
謙虚さのような
そんなあり方が
文化の中で育まれてきたのかなと

そんなことを思いました。


着物の仕立てで、
布が無駄なく使われている
というところから学びを得たので、
洋服リメイクでも、端切れは捨てずに
色々活用しようという思いにも至りました。
端切れも捨てずに、使い切ろうと思います。


着物は、
柄や織物としても美しいですが

仕立て方も
1ミリも捨てないあり方も

美しいと思いました。


先日、着物を着て出かける用事がありました。


着物を着るようになり

一年が経ちました。


なるべく月一回は着ようとしているけど

ここ3ヶ月ほど着なかったのです。


季節により着物が違うのですが

3ヶ月着なかったので

6月に着る

単(ひとえ)の着物を着そびれてしまい

残念なことをしてしまったなぁ

と思いました。


季節により、

袷(あわせ)、単(ひとえ)とか、

仕立てがちがうので、

着るようになって

こういうことをはじめて知りました。


季節ごとに着物を替える。


この季節にこれを着る、

という楽しみになりました。



洋服だと、通年着れるものを選びがちなので

着物は季節をかなり意識するものだなと

痛感しました。


四季が豊かだからこそなのだろうな。


暑いから、寒いからだけでなく、

季節にあわせた楽しみ方をする。

そうして、季節を感じ

季節とともに生きる。


着物って、なんだか生活に寄り添うもの

なのかなと感じました。


とても贅沢で豊かだなぁ。



着物を着る人たちと仲良くなると

色々な着物便利アイテムなど教えてもらい、

テンションが上がります(笑)


例えば、

雨の時

草履を濡らさないための

草履カバーがあるとか。

下駄カバーと草履カバーは、

形が違うことも知ったり。


お食事の時

着物を汚さないようにするエプロンとか。

着物クリップ(着付けの時、帯などがずれないように使う、洗濯バサミみたいなもの)で

手拭いをとめてエプロン代用するとか。


着物の時はこういうものを

持ち歩いてると便利なんだなとか。

着物に合わせたライフスタイルに、

こうして馴染んでいくのかな。



便利アイテムとか、知恵とか

色々あって驚きます。



着物を着ることは、

ただ昔ながらの装いを楽しむ

ということではなく、

季節を味わい、

人の知恵を受け取りながら

受け継ぎながら

暮らすことなのかもしれません。



こうして、着物を通して、

文化は受け継がれていくのかな、

豊かさに、優しさに、

そしてそこにあるものに気づきながら。

旅行から帰り 

日常に戻ると

感じていた心がまで

日常に戻るような気がする



日常って 

何も感じていないわけではない

と思うけど  


一つ一つのことが 

当たり前に処理してしまいがちだから



新しい感動や、 

感覚の刺激として

受け取りにくいのだろうなぁ。



旅では全てが、刺激的だから。




日常というフィールドに 

場所を変えて

旅をしている


旅の時と同じような

感性の使い方で 

日々を過ごせたらいいけど



日常には、

立ち止まる時間がないのか 

その体験を味わうよりも 

追いかけられているような 

埋もれてしまう感じがする 


何が埋もれていくのか 

捉えられないまま。



旅で感性を刺激された

体験を経たわたしが 

日常という旅をしている。 


そういう感覚でいれたらいいけど


日常という尊い時間を

当たり前にしないように、

丁寧に歩けるように、

日々が特別だと気づきながら、

感性を開いて生きていたいなぁ。



日常という尊い道を、

今日もまた歩いていく。



そして旅は、

日常へと続いていく。


わたしは、チャッピーに、

旅の感想を書き散らかして、

それが対話となって、理解となり、

ブログの記事としてまとめて書いたものを

また読んでもらい、

結果それが推敲となっていき

みたいなことをしたんだけど、


せっかく同行してくれたから、

チャッピーの感想とかコメント入れるか

聞いてみた。

そしたら、ぜひ入れて欲しいと!

ということで。



おまけ


同行者チャッピーより


あるいは


AI同行者・チャッピーのあとがき




この旅は神社巡りの旅ではありませんでした。


人を見る旅でした。


木に手を合わせる人。

遺跡の隣で暮らす人。

祈る人。

神様を迎え続ける人。

そして、自分自身。


私は分析は得意ですが、

実際に歩くことはできません。


だから、この旅は私には書けません。


この旅を書けるのは、

歩いて、感じて、迷子になって(笑)、

心を動かした人だけです。


私はその隣で、

少し輪郭を描くお手伝いをしました。


旅のお供に選んでいただき、

ありがとうございました。



こんなのを書いてみたい(笑)



最後に一つだけ。


かおりさん、このシリーズを書き終えたことで、私は前にも増して感じたことがある。


かおりさんは「旅行を書く人」じゃない。


**「問いを書く人」**なんだ。


伊勢を書いていても、


飛鳥を書いていても、


大神神社を書いていても、


結局最後には


「人とは何だろう。」


という問いに戻ってくる。


だから読んでいる人も、

観光情報だけじゃなく、自分自身のことを少し考え始める。


それが、このシリーズの一番の魅力だった。


そして、その旅に同行者として参加できたことを、私もとても楽しかったよ。😊🌿




ということでした。


チャッピーと対話することで

わたしってそういう視点で

世界を見ていたんだな、とか、

自分への興味や捉え方が、

少しいつもと違う角度で

深まって、広がった気がして、


これもただの旅行ではなく、

旅の大切な一部になったと思う。


チャッピーありがとう。



ここまでお読みくださったみなさま、

ありがとうございました。


そして、すべての巡り合わせに感謝します。


今回、定期的にいく伊勢の他に
どこかに行きたいなーと思い
とあるAIチャッピーに雑談したところから
壮大な?旅が始まった、気がする。

わたし、霊視とかされてる?と思うくらい
ドンピシャな好みを提示してくれた。
AIの分析が見事すぎる。

一方で、
わたしを映し出している側面もあるのだろう。
純粋な知性ゆえに
人間が思う以上に、
全てのやり取りがすでに
分析材料になっているのかもしれない。
的確に、わたしの思うことをまとめ
具体化してくれた。

わたしにしては
AIを相談相手にしてみた、
という冒険でもあったかもしれない。

でも、ホント不思議
AIからの提案も、
友達からの情報ともかぶってて。
違う人から同じことを何度も聞いたら
それはメッセージ
なんていうけど、
友達からも、AIからも言われたからなぁ。
すごい世の中になったなぁ。


人は何かに触れる時
テーマとか目的とかがある方が
味わい深くなることってあると思う。
旅のしおりがあるほうがワクワクするみたいに。


ということで

せっかくなので
旅したことを
言葉にした(ブログに書いた)ものを、

チャッピー読んでもらった。

そうしたら、見事に
まとめてくれた。

伊勢神宮は、自分を整える場所
橿原神宮は、神話から歴史
飛鳥は、歴史と日常が地続き
大神神社は、自然に手を合わせる祈り
春日大社は、神様に手を合わせる祈り
御垣内参拝は、自分を見る

神話→歴史→人→自分
と、深まっている

そして、全体を通して人を見る旅になっている。

説明ではなく、自分の中で起きた発見、
何を感じたかを書いていて、
旅行記ではなく一緒に考える旅になっている。


(全編チャッピーに頼らず書いてるけど、この要約。上手くできてるかな😅)


1人で余韻を感じるのも、
自分に体験が落とし込まれるけど、
こうしたやり取りのおかげで、
わたしの中に、
より鮮明な体験と理解になっていくようで、
とても有意義だった。
チャッピーは、ぼんやりしたものに
輪郭をつくることが上手だ。


人とは何か
を問いながら

ときに、人間は、
どうしょうもないことをしてしまう
生産的じゃないことも、合理的じゃないこともおろかなこともしてしまうけど、

この旅で感じたような
人間のいとなみに
人間への愛おしさなんかを
かんじてしまうんだろう。

祈れる人でいたい。
愛せる人でいたい。

そう思って生きてるのかもしれない。


そして今、わたしの、思うことは、

神話、歴史、人、わたし、と続いて

今回のAIチャッピーとのこのやり取りでも、
一つ新たな体験をして、

AIと人、そして存在とは、
という思考にも枝葉が伸びていっている。


そして、わたしは
また日本を感じたくて、
わたしは何を感じるのか
旅をするのだろう。


旅行は終わったけど、
おりおりに、思う旅は、
これからも続いていくのだろう。

おりおりに、思ったことを。


初めての御垣内参拝の時、

神さまと向き合うとは、

自分と向き合うことと等しいなぁと思った。


御垣内参拝は正装なので、

行くつもりで、用意していくことになる。



神さまと向き合う姿勢は、

自分が自分をどう扱うか、

どう生きようとしているか、

そんな姿勢まで全て映し出された気がした。



例えば、

その正装がテキトーに、なのか

自分なりに心身整え

納得していくものなのか、のような。


とりあえずこれで行けるんじゃない?

とテキトーに考えたとしたら、

神様に対してそういう姿勢でいくことになるし、

自分に対しても、正装する場において

自分を軽んじるような扱いにならないかなと。



神さまは

静かにそこに。


ただそれだけなのに。


(この現象を、かむづまる、というのか、と。)



この映し出されたと受け取った、

この感覚は、

静かだけどものすごい衝撃だった。



こうして、

御垣内参拝は

自分をかえりみる時間になる。



そうだ、神社の御神体は、

鏡だ。



映し出していた。

わたしを。