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城郭模型製作工房

城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

熊本城御裏五階櫓です。

長いプロジェクトの始動です。
五階櫓1つを作るのにどれだけ時間がかかるか早めに明らかにする必要があり、ホビーショー後すぐに取りかかりました。
一週間でここまでできたので、10日くらいあれば五階櫓一棟ができるのかも。

この御裏五階櫓は発掘調査の結果と古絵図をもとに、古写真を書き起こす方法で独自に復元考証しました。

古写真の瓦や垂木の本数などから比率を割り出していきました。

先行研究とは異なる数値が割り出されたり、印象の異なる姿の復元となりました。

古写真と同じ景色が。

模型も当然瓦の本数もほぼ古写真通り。
この精度での模型化は前例がないはずで、立体でこの櫓が姿を現わすのは明治の解体以来ということになります。
しかし立体化は思いどおりには行かず、初重の軒の出の配分に2ミリほどの目算違いがあり、瓦の本数を優先したため、千鳥破風からの雨を流す溝の幅が広くなってしまいました。また、その分だけ初重の屋根の勾配が緩くなってしまっています。今後の課題です。
この櫓には昔から惹かれるものがあり、自分の手で蘇らせるのが念願でした。

御裏五階櫓は熊本城の五階櫓の中でも小ぶりです。小天守が城主の正妻のための建物だったことに加え、「御裏」という城主のプライベート空間を表す言葉がついていることもあり、大小天守と並ぶ姿は、さながら城主一家を思わせます。

一階平面は直角の隅が一箇所も無い不整形で、独特の屋根の納まりをしています。

櫓の南方には、「埋下櫓御門」が接続していて、これをくぐると石門を経て小天守の入り口に至ります。北側には「御本丸北輪居櫓」が繋がっています。

この先、懸案の多聞櫓への空中接続部分ですが、御裏五階櫓は工期の目安を出すという目的を達したのでお休みします。
プロジェクトの詳細は時がきたら…


今週より、いよいよ岡山城へ本格突入です!



じゃーん。
明治期の熊本城大天守です。
静岡ホビーショーの展示にはどうにか持っていける段階になりました。
静岡に向かう新幹線の中から更新です。

熊本城の話題の前に…
本日11日発売のアーマーモデリング6月号の作例を担当しました。
童友社のデラックス名古屋城を使って、木造復元竣工時のようすをジオラマにしました。
急な依頼で一週間で仕上げなければならず…甘いところもたくさんあります。
どうぞお近くの書店で!

さて。
この古写真をどうしてもカラーで見たくて。
つくり始めたのですが、熊本城となるととことんこだわってしまうので結局小天守は未完の状態です。

ホビーショーなので、製作過程も分かるこの状態も面白いかもと思い。
題して「明治期熊本城再現プロジェクト進行中。」

並べてみました。


裏側にあたる東面は古写真の読み込みから、現在とは形が違うところが何カ所かあります。
本丸御殿からの接続部分は、古図をどんなに読み込んでみても形状がまとまらず、もう少し時間がかかりそうです。

石垣だけは当時の形に造形し直しました。
このプライベート1/150模型は、最終的には前掲の古写真に写っている全ての建物を再現するところまで行く予定です。
すなわち、御裏五階櫓、小天守下長櫓、トキ櫓のある石門周辺。手前の平左衛門丸の御肴部屋櫓、天守南側の耕作櫓御門、天守廊下までです。

そしてゆくゆくは熊本城全ての五階櫓を1/100、天守も1/100という構想を持っています。

さて、造形完了後の彩色過程を順を追って見てみます。

まず、グレーで下塗り。

白壁部分の下塗り。

白壁の塗装。水墨画のようですね。
ここまではエアブラシ。
次からは筆彩色です。
下見板にはみ出した白を下地のグレーで修正。

少しずつ彩度を上げていきます。

基本的な塗装工程は1/100の宇土櫓と同じです。
ただ、今回は、下見板の彩色は五層くらい重ねて深みを増してみました。

最終的に退色などを描き込んで質感を高めました。

屋上には鎮台の旗が。
現在のコンクリート天守を見慣れていると少し違和感があるかもしれません。
現在の天守は最上階の腰部分や唐破風の破風板が白漆喰仕上げになっていますが、どの古写真を見ても最上階に真っ白な部分は見当たりません。下層の破風板や白壁などの漆喰部分の白との対比から、最上階は全て木部であったと想定しています。


西南戦争で焼失する直前の熊本城の姿です。


この模型はこれからもゆるゆる進めていきますのでお楽しみに。

それでは12日、13日、静岡ホビーショー、よろしくお願いします!
(妻はウッディージョーの安土城に手を加えて。こちらも未完、展示までに完成させるようです)




ホビーショーまであと4日となり、じゃんじゃん進めていたところで…

丸瓦の半円プラ棒が切れる。万事休す。
25袋を使いきりました。
材料が切れた段階の状態。
小天守の裏側は手付かず。

空白を計算したら、プラ材の総延長11メートルが足りないことが発覚。
全国のヨドバシカメラのエバーグリーンは既に私が買い占めて品切れ。すみません。

万事休してもいられないので、大至急手配してやれるところをガンガン進めています。

今回は小天守の入り口部分について考察というか半ば想像を。

昔から小天守の入り口部分がなんだか間延びしているように感じていました。

古図を見てみると、小天守の入り口「御門」の直上には、全面格子窓の中二階があったことがわかります。

小天守一階の床ラインを外観に引いてみると、ちょうど中二階を設けるだけのスペースがあることが分かります。

ここに格子窓があったとするとこんな感じか?
合成画像をつくってみました。

これを見て思い出すのが、熊本城内にあった櫓門の姿です。
古写真のはじっこに写り込んでいる耕作櫓御門。
門の上の櫓部分が二階建てで、門を一階と数えると3階建てになっています。屋根も三層になっている。

熊本城内には、同じような三階建の櫓門が少なくとも6棟ありました。
すなわち、耕作櫓御門、地蔵櫓御門、二階御門、数寄屋丸御門、札櫓御門、元札櫓御門です。

天守級の五階櫓が5棟(当初は6棟)あったことと並び、このような三階建ての櫓門が6棟あったということも、熊本城の大きな特色であったと思っています。

それが小天守の「御門」とどう繋がるかというと、ここも庇が二層重なっていたのでは、という想像です。

古写真をよく見てみると…
庇が二層あるように見えてくるから不思議。

模型ではこの想像を加味してみることにしました。
一階の床の根太をそのまま出桁にして庇を作ってみると、その下に充分な高さができました。

暗いけどこんな感じ。中二階の格子窓はもう一段低くても大丈夫でした。
御門の形状は、古図の通りに左側にくぐり戸を設けました。

ちなみに、現行小天守での中二階の格子窓は、御門の上部に形だけ再現してあります。

次回は造形が完了した白模型の状態でお見せしたいと思います。








以前の記事にコメント欄より大天守の千鳥破風の蓑甲部分の納まりについてご指摘をいただきました。

昭和の復元の際に藤岡先生がこだわられ、そのために設計士を辞めさせたという逸話が残っている千鳥破風の根もとの納まり…

この部分を再現できた模型は今現在皆無ということで、最初に再現できた人になりたくないですか?というお言葉に刺激を受け…

形だけですが。

(笑)
わかる人にしか分からない。
ごめんなさい。
立体としては成り立っていません。なぜなら、熊本城の千鳥破風の不自然なまでの巨大な蓑甲を再現できていないからです。
今回は壁面から破風面にかけて、均等に屋根を捻ることで納めています。

本物では直交する屋根の勾配と蓑甲部分での千鳥破風の勾配が同じになって、ここに軒平と軒巴が置かれるという特殊な形状になっているのです。

言葉で説明しても伝わらないと思います。

ゆくゆく、1/100で、という構想がありますので、その時はちゃんと立体として再現したいと思います。

さてさて。
小天守の続きです。

順を追って。

下見板。

押縁
ここで問題発生。押縁は大天守では一間に3本、小天守は一間に4本なのですが、ずっと大天守の感覚に慣れていたので、小天守も一間に3本で作ってしまったのです。途中であれっ?と気づくも後の祭り。途中から4本にしたため、混在してめちゃくちゃに。心残りです。

窓の水切り

柱を入れて

白壁。

上層部。ここはプラ板で起こしました。窓が多いのがよく分かりますね。

窓を埋めて出桁までつくりました。

あと、キットでは反り屋根になっている接続部分を直線に変更。

古写真をよくよく見るといろんな発見があります。

北側に復元されていない出桁の腕木があったり。

腕木の数が違ったり。
見ながらおやっ?と思ったところは他の古写真でも確認して間違いないか確かめます。

これから作る部分でいうと、藤岡先生が古図にある突出は無いと結論付けられた西側の雪隠部分。
古写真をよく見ると、雪隠部分がわずかに突出していて、壁面に段差ができていることが分かります。古図にある窓もよく見るとちゃんとある。

古写真、面白いですね。
今まで何度も目にしていた古写真に、こんなに新たな情報が隠れていたと思うと、今まで何を見ていたんだろうと思います。

明治期の熊本城の古写真を模型に起こしています。

大天守の造形がほぼ完了しました。

腰屋根の瓦や軒の隅の部分、懸魚の六葉、鳥衾などなど細かい部分と隙間処理などが残っています。

突き上げ戸は本体塗装後に取り付けです。

昨日にかけて格子地獄と破風地獄でした。

大天守はここで一区切りとして、小天守側へ製作を進めます。

まず小天守との接続部分。

ここは有名な石垣から張り出した空中雪隠がある場所です。

天守の東側の特に下層部は古写真がありません。というのも、周りの建物に隠れているからです。

昭和のコンクリート天守を復元設計された藤岡通夫先生も、この空中雪隠周辺の復元には苦心されたことが著書から伺えます。

今回、模型にするにあたって、自分で改めて古写真を見てみると、現在のコンクリート天守とは違う部分をいくつか発見しました。

まず、空中雪隠の屋根の流れの向きです。
この古写真をご覧ください。

空中雪隠のところを赤丸で囲みました。
これを乱暴ですか描き起こしたものがこちら。

軒下は板張りか影か、黒くなっています。コントラストが大きいので、彦根城のような雨除けの板張りになっていたのでは?と私は思います。


次に別アングル、真北からの古写真です。これはネット上で公開されている平左衛門丸塀復元事業の概要をまとめたpdfファイルの中の古写真です。
黄色で囲んだのが空中雪隠。

これも描き起こすとこのように。

つまり、空中雪隠の屋根の流れは、現在の屋根と90度向きが違うことが分かります。



さらに2枚目の古写真をよく見てみると、大天守の下の影が、空中雪隠部分で切れていることが分かります。途切れたところがモヤモヤっとなっていて判然としないのが残念です。
本当に浮いていたのでしょうか?


さらに古写真をよく見ると、昭和の再建では復元されていない窓が2つあることが分かります。
窓に関しては細かいことをいうと、焼失前の窓は、昭和再建時の窓より位置が下見板一枚分くらい下にあります。

古写真を読み取った結果をまとめたのがこちら。


これを模型に反映します。
壁面を貼り込んでいきます。

空中雪隠部分。

空中雪隠の屋根まで取り付けたところ。

古写真の読み込みから分かった内容を形にした部分をまとめたのがこちら。


空中雪隠が本当に浮いていたかどうか…これは謎です。

現在の天守を見てみると、建物と石垣が一致していなかったり、古写真にある窓を設けるスペースがなかったり、この辺りは焼失前とかなり寸法が違っている可能性があります。

石垣の積み直しがあったのかも??