【岡山城本丸模型】本段の建物②御殿、廊下の立体交差、眺月、庭 | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

寛保期の岡山城本丸模型です。

建物をそれぞれ見ていきながら、模型製作での成果を総括しています。

前回に引き続き、本段の建物です。
今回は本段御殿がメインになります。

【本段御殿】
本段御殿は城主の住まいであり、本段への出入りは厳しく制限されていました。本段の正門は不明門で普段は固く閉ざされていたのです。

今回の模型では、寛保期の古図の平面から屋根の構成を推定していますので、人によって見解が異なると思います。

資料とした「御本段絵図」です。

この絵図には確たる年代の記載はありません。
これを寛保期のものと結論づけるまでの流れを簡単に振り返ります。

【本段御殿絵図の年代特定】
本段御殿はその性格上、増改築が日常的に行われていたようです。絵図も大きく分けて四つの時期のものがあります。

最古のものは元禄13年の「御城内絵図」

次に先ほどの「御本段絵図」系統か3枚。

幕末、万延元年の「御本段惣絵図」。『歴史群像 岡山城』などでおなじみの復元図はこの絵図をもとにしています。

万延図から大幅に建物が撤去された「御本段御絵図」

どの絵図も建物の用途による構成はほぼ同じですが、よく見ると間取りが変わっています。
特に北側の天守直下部分と台所周辺は改変が激しいです。
元禄から最後まで残った(と言っても建て替えが繰り返されたかもしれませんが)のは御寝間のある棟と局部分のみです。

この中で資料とした「御本段絵図」が寛保期と言える理由は二つあります。
一つは、中の段の表向御殿の寛保四年の絵図である「御書院御絵図」と、線の引き方や使われている顔料の色、石垣の描き方、そして筆跡が大変似ていること。
特に「御庭」の文字は崩し方も大変似ています。

私は寛保四年の表向御殿御殿を記録した「御書院御絵図」と年代不詳の「御本段絵図」は同一人物によって引かれた一対の図面であると考えたのです。

そして模型の製作が終盤に差し掛かった時に決定的な発見がありました。これが2つめの理由。
岡山の国家老伊木家にゆかりのあるとある個人様が、寛保三年の本丸絵図を所蔵されていることを突き止め、幸いにも詳細な画像を提供していただくことができたのです。

この寛保三年の絵図の本段御殿と、先ほどの年代不詳の「御本段絵図」の間取りがほぼ一致することから、「御本段絵図」は寛保期の御殿の姿を記録していると結論づけました。


模型はこの絵図を1/300に調整して、直接壁を立てていく方法で作成しましたので、絵図のそのままの立体化と言えます。

最終的に、現代の測量結果から起こした地形にピッタリと入りました。この絵図の精度の高さが伺えました。

杮葺と瓦葺きの葺き分けは、元禄絵図の色分けを参考にしています。元禄絵図の御納戸色と代赭色の塗り分けは屋根材の違いと言われています。

御殿の部屋の用途を書き込んでみました。

実際にはお菓子部屋、中い部屋、茶間、湯殿など、もっと細分化されています。

【泉水・築山】
御殿の南西部は庭となっており、泉水があります。
この泉水も見取り図が残っています。
奥に築山があり、蘇鉄が植えられていたことが分かります。
この完成写真では分かりにくいですが、築山や石組みも出来るだけ見取り図に近づけています。
築山がよく見える製作途中の画像です。


【渡り廊下】

岡山城の御殿の最大の特徴である、渡り廊下です。

奥御殿と表御殿を階段のある渡り廊下で結んでいます。
御書院廊下は元禄絵図には無く、のちの増築です。

この辺りはまさに通路の立体交差、さまざまな動線が重なり合います。

●廊下門→台所
廊下門をくぐって坂道を登り、表向御殿の台所に達するルートです。台所の勝手口に繋がる、日常的なルートです。

●本段御殿→花畑廊下→花畑御殿
本段御殿から、山里のような機能となっている花畑御殿へのルートです。本段御殿から一旦廊下門まで階段で降り、さらに階段を使って下の段の花畑御殿へ至ります。

●本段御殿→花畑廊下→廊下門→表向御殿
元禄絵図にある本段御殿と表向御殿を結ぶ、当初からのルートです。

●本段御殿→御書院廊下→表向御殿
のちに増築されたルートです。廊下門を経由せずに、直接上下の御殿を繋ぎます。先ほどの当初ルートとの違いは傾斜で、急な階段を使わずに緩やかに御殿の行き来ができます。城主が日常的に使ったものだと思われます。

●御秘用口→御秘用口御門→台所脇→廊下門
本段御殿の北御座敷の庭にある「御秘用口」から地下通路を通り埋み門の御秘用口御門を経由する緊急脱出通路です。
現在は塩蔵脇の石段で中の段と繋がっていますが、御殿は現在の石段の真上まで建っており、残りの石段部分も庭となっていました。古絵図にはここに「御秘用口」と書いた小さな切穴のようなものと、そこから繋がると思われる埋み門状の「御秘用口御門」が描かれています。
今回の模型では、地下通路として表現してみました。

この場所はこれら5つのルートが立体交差する、大変特異な空間でした。

【眺月】
本段の建物、最後は天守の東に建つ高床の座敷、「眺月」です。

この建物は、絵図から階段を昇って座敷に至る高床の建物であるらしいこと、座敷には床があり、しかもそれは数寄屋風の棚であるらしいことが伺えましたが、この建物の用途をはっきり確定させることができずにいました。

絵図の描写を素直に立体化するとこのようになります。
次の間の三畳は増築部分です。

物見かとも思っていたのですが、座敷作りであることから、どうらや遊興性が高いようです。
元禄絵図を見てみると…なにやら部屋の名前が書いてあります。
寛保絵図と比べると、主室のみだったり、床の位置が違ったりしていますが、北側に箱段(絵図では箱はし)があること、やはり階段で昇る高床建物であることなど共通しています。

この文字が読めなくて…
ツイッターで聞いたところ、読める方から教えていただきました。

「ちやう月」と読めます。と。

なるほど!ちょう月!眺月だ!

ということで、高床の離れ座敷、眺月です。

ちなみに、幕末の万延絵図では「御賞◯」(◯は山かんむりに判。御相伴の当て字か)となっています。
御相伴とは茶室の次の間のことを言いますので、茶室であった可能性もあるでしょう。

【樹木】
特筆すべきは、「御本段絵図」には樹木の記載まであることです。樹種まで書き込みがあります。
模型ではこの記述にならって樹木を立てました。
ただし、東側の局と土塀の間は大変狭く、絵図にある樹木を立てるのがとても難しい状況となりました。
おそらく、実際にはもう少し軒が浅かった、プラ材の厚みでほんの僅かに実際より建物が大きい、などの理由が考えられますが、それほど本段には建物がぎっしりと建ち並んでいたということです。

以上、本段の建物でした。

次回は中の段に進みます。

【岡山城本丸模型(寛保期)】
岡山寺にて公開中!
(岡山市北区磨屋町)