広島。 | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

今日は72年前、広島に原子爆弾が落とされた日。

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炸裂の約2秒後に衝撃波が到達、国宝に指定されていた広島城天守は、下層部が押しつぶされ、上三層は形を留めたまま倒れたといいます。

その瞬間を見た方の絵が


「日時 昭和二十年八月六日 午前八時十五分
場所及び方向 広島城本丸北堀端対岸の堀端上り南方を望む。
(中国師管区教育隊営舎前庭より南方を指す)
内容 いわゆる「ピカッ」が来て「ハッ」として咄嗟に手で顔を覆い乍ら左まわりに臥せようとしたところへ「ドン」が来た。左まわりに倒れ乍ら瞬間目に映じたのは、広島城が左側へ土煙とともに傾く姿であった。同時に私も地面へ叩きつけられた。地面より立ちのぼる土煙の中へ・・・・・。
その時、眼底に映じた忘れられない状況です。営舎前に倉庫がありました。また当時絵のようにプール(絵左側)がありました。このプールは後に衣服(軍服)に火がついた兵士を何人も助けるもととなりました。」

よく広島城は原爆により「焼失」と書かれますが、燃えることなく倒れたままの姿でしばらく残りました。
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炸裂の瞬間の熱線は爆心地付近で3000度から4000度といわれます。ちなみに鉄の融点が1500度。
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二キロ以上離れた地点でも火傷を負ったそうです。(長崎は4キロ)

後に原爆ドームといわれる産業奨励館はドーム部分の銅板が一瞬で蒸発、炸裂とほぼ同時に襲った衝撃波が通り抜けたため、姿を留めました。

建物の状況から、そこにいた人びとの状況を思うと言葉になりません。

以前、原爆ドームのジオラマを、というご相談があったのですが、私には作れませんでした。
その年の終わりまでに14万人ともいわれる広島で暮らしていた人びとの生死の象徴であるこの建物を、ジオラマにするには余程の覚悟がいるからです。
アウシュビッツのジオラマを作れないのと同じ。

その時に被爆された方の言葉を音声と映像だけですが見聞きし、なおさら作れなくなった。

ただでさえプラモデル化に不謹慎だという議論もあるのです。

その一方で模型化を通して平和を考える機会にしてほしいという取り組みもあります。

作ろうと思うまでにはもう少し時間がかかります。


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もっともっと生きたかった人がおられたことを思います。

八月六日 九時半か十時頃から惨状
火事をさけて一生懸命川端をもとめて来た人だかり、大半が二部隊の兵隊さん点呼の時間でほとんどの方が軍服をボロボロに焼き帽子のあとを残して直射を受けた皮膚は、じゃが藷のゆでた時の皮の様によれよれに皮も身も耳も手もぶらさがって頭髪を帽子のあとをのこしてのっペラボーの赤身の顔に見開いたまゝの目赤むけの口唇、背の皮をきれいにむいて、赤身からほとばじる血、これほどの傷で信じられない程の生きのびる為の精根を生への欲望の偉大な事をまざゝと見た事です。
すでに息絶えた幼子を大切そうに抱いて身にまとう大半をやき傷だらけのまゝ茫然と体をゆする女人、学徒らしい男の子も学生服のはしきれのこして全身をやき虫の息の中で母の名を呼んでいる大粒の黒いどろまじりの雨がしばらく降って、火事の心配をいくらかやわらげてくれた事、其間も風にあふられて木片が火をつけて飛んで来た。敵機の旋回する無気味な爆音はおびえをつのらせる
時間が経つにつれて死の色の近くなる人達が水を求めて虫の声をふりしぼる。私は茶碗のかけらで出来るだけきれいな水を求めて一人、一人のむさぶり取る様にのみ安心して息を取る人を無表情のまゝくりかへした。どこかで、水を飲ますと死ぬぞ・・・・大声でどなっている。その声をしり目に、血をはかんばかりに求める人達に私はもう死んで行く人だせめてこのかわきを満たしてあげようと、あのよろこびに満ちて、充たしゆくのどの音は忘れられない」