詰ノ丸の櫓が揃いました。
詰ノ丸の北西隅の櫓。
宮上先生は月見櫓としておられます。その根拠は定かではありませんが、岡山城の天守と月見櫓の位置関係からでしょうか。
宮上案の精密な復元図では高欄が内側のみになっていて、岡山城の月見櫓を意識してあるのかな、と思ったりします。
本丸図では建物が石垣より一回り小さくなっていて、上の復元図もよく見ると石垣上面に余白をとって櫓が建っています。
城塞繹史収録の本丸図では櫓は二重のものは二重線になっているので、もし通常通り石垣いっぱいに初重が乗っていれば、この櫓は三重かな、とも思えます。
豊臣大坂城本丸北部模型でも三重にしましたので、この度も三重櫓としてつくりました。
しかし、ちょっと趣向を変えて、冬の陣図屏風のこの三重櫓の形にしてみました。
二重目に高欄が回っています。
徳川期の縄張りとの重ね合わせの基準点にもなっています。
夏の陣図屏風の天守右の二重の櫓がちょうどこのあたりです。
多聞櫓が繋がっていてこんな感じ。
宮上案の復元図は、櫓はなぜか全て層塔型になっています。時期的に考えると、熊本城のような入母屋に上層部を重ねた形が自然に思われますので、今回は櫓はほぼ全て望楼型で製作します。
次は西側の小さな櫓。三間半四方くらいの規模です。
ほぼ正方形なので、望楼型にするのはちょっと無理があります。
平櫓か?とも思いましたが、城塞繹史の図面では二重の描写なので、重層であったとしました。
そこで正方形かつ重層にする、ということで、冬の陣図に見られるこの形。
仏堂のような宝形造の櫓です。
この変わった形の櫓は京大坂図屏風にも描かれ、もしかしたら豊臣大坂城の印象的な建物だった可能性もあります。
作ってみました。
本丸図の詰ノ丸に記載のある櫓は以上ですが、今回も悩むのは夏の陣図屏風にある四層の巨大な櫓です。
規模は10間5尺×8間2尺。天守並みの大きさです。
西の丸に家康が建てた天守ともいわれ、櫻井先生は西の丸からここに移したのでは、と書いておられますが、確かに櫓台に見えます。
西の丸に作ろうかとも迷いましたけれど、建築考証に専門家が入っている大河ドラマでもこの四重櫓は再現されていたりするので、今回もここに四重の大櫓を作ってみました。
といっても、ちょっと解釈を変えて、三重のような四重のような。
四は死に通ずるから嫌われたと言いますし。
もうひとつ、手前に黒鉄門があり、奥に高層の櫓が繋がる様子が、熊本城の竹ノ丸脇五階櫓の構成にそっくりなのです。
建物はまだ固定していません。土塀は少しずつ立て始めました。