この考察は図面の作成が目的ではなく、その図面をもとに立体としてもきちんと納まることを確認するのが最終段階です。
まずは天守と御裏五階櫓の150分の1の古写真再現模型で微調整をし、御裏五階櫓単体を100分の1の模型にするのが目標です。
ですので、年単位の計画となります。
私の考察が、今後の御裏五階櫓研究の先駆けとなることを願います。
前回の続き。
御裏五階櫓の謎は詰まるところ、斜め下にある多聞櫓との接続部分で、これはどうやっても階段室が宙に浮いている形になってしまうのです。
そしてその宙に浮いた階段室の約10メートル真下に、何やら建物の基礎になりそうな石組があることに気付き、その石組みと宙ぶらりんの階段室が関わりがあるという仮説を立てたのでした。
熊本城から提供していただいたその石組の写真です。
(熊本城総合事務所より提供)
上部は整形の切り込みになっているようで、柱を立てた痕跡のようにも見えます。
さらにこの石組みの上方石垣面にホゾ穴のような加工痕を発見したのでした。
(熊本城総合事務所提供資料に加筆)
別方向からの写真を見るとその加工痕跡は下の石組みの直上に当たるようです。
確かに、幅が1間ほどしかない多聞櫓の屋根の幅と、2間ほどの幅がある隣の長櫓の屋根の幅がほぼ同じに見えるというのは不思議なことです。
片流れという特異な屋根の形状ですが、階段の傾斜に沿った上部空間の確保と、谷状になっていてあらゆる建物からの雨水が集中するこの石門部分への雨水の落下を少しでも少なくするということから見れば合理的とも思えます。
(熊本城総合事務所提供写真を拡大、加筆)
これらの遺物と御裏五階櫓の階段室に何らかの関係があるのか、図面を起こしながら探っています。
周辺石垣を平面図に作図しました。
もとにした資料は御裏五階櫓石垣平面略図です。
(熊本城総合事務所提供資料部分)
ただし厳密な平面図ではないかもしれず、国会図書館で入手した実測図とはトキ櫓台南東隅で最大で約50センチのズレがありました。オレンジのラインが実測図、黒のラインが略図。私の書き起こしの誤差もあるかもしれません。
この段階で、例の石組みの場所が、発掘された礎石を基準に引いた6尺5寸のグリッドが交差する点にピッタリと位置しているのです。
右のほうの小さな正方形が石組みの場所です。
続いて平面図から石垣立面図を作成します。
平面図から立面を作るやり方は簡単で、まず、石垣の法面の幅の長さを取ります。
そのようにして作成した石垣立面に、古写真を書き起こして作成した櫓の立面を載せました。そして階段室の柱を真下に伸ばすと、あの石組に突き当たりました。
幅は合いましたが奥行きはどうでしょうか。
前回と同じ方法で6尺5寸のグリッドに合わせて古写真を調整し、階段室の奥行きを赤い四角で取りました。
この赤い四角で測った階段室の奥行きの幅を保持したまま、石垣平面図に移動します。
偶然にしては合いすぎです。
私は御裏五階櫓台西面下方に存在する石組みと、階段室は構造的に繋がりがあると結論づけました。
ただし、私は実物を見ていませんし、建物を支えることのできる石組みであるのか、判断できません。しかしながら、その位置と上部建物の状態から、関連性があると見てもいい条件は揃っていると思います。専門家の研究を待ちます。
そして問題の多聞櫓との接続です。
古写真の書き起こしにより、多聞櫓の棟高を割り出しました。それをもとに北面と西面を同じレベルに揃え、接続位置を確定していきます。
その結果、驚くべきことに、古写真に写る建物の接続状態を実現するには、下方の多聞櫓の屋根は、片流れであったという結果になりました。
片流れという特異な屋根の形状ですが、階段の傾斜に沿った上部空間の確保と、谷状になっていてあらゆる建物からの雨水が集中するこの石門部分への雨水の落下を少しでも少なくするということから見れば合理的とも思えます。
もしくは、多聞櫓の内側が1間ほど石垣よりはみ出していたかですが、御城内御絵図では一間幅となっていますから、屋根は片流れの可能性が高そうです。
この御裏五階櫓から小天守にかけての石門部分は、その石垣構成だけでも他の城には見られない特異な空間です。今回の考察から、建物も含め、異形の姿が浮かび上がってきました。