豊臣大坂城全景③製作のアウトライン | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

地面の高低と曲輪の切り出しがほぼ終わりました。
二ノ丸とそれぞれの口に設けられた馬出し曲輪が現れました。
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京橋口から。北に向かって低くなる様子がよくわかります。
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図面が残っている本丸と違い、二ノ丸ははっきりしたことが分かりませんので、様々な資料を総合してつくっています。

まず徳川期の縄張り。大まかなかたちはそのままだというのが通説です。
外堀の水位が下がった時に現れる水際(下の写真の青い線)が豊臣期と関連あるのでは、という説もあるそうです。
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(画像はこちらより引用。詳しい記事もリンク先で)

この現状の地形に古絵図の情報を重ね、どんな建物があったか、また曲輪の用途を比定していきます。参考にした絵図は以下の3点です。

「慶長十九年甲寅冬大坂絵図」(中井家、重要文化財)
「大坂冬の陣配陣図」(『僊台武鑑』収録)
「大坂城慶長年間古図」(『金城聞見録』収録)

それぞれ系統が違うので、内容が食い違ったりします。

それに現在出されている復元案をいくつか参考にし、論文も数種類あたりました。

馬出し曲輪の形状には、発掘された豊臣期の遺構の情報を反映しました。

まだ細かい曲輪の囲いなど未完成ですが、これからの製作のアウトラインを少し詳しくご紹介します。

【二ノ丸南西部】
現在の大手門周辺です。
千貫櫓は今と位置が異なるようです。本丸桜門の土橋前には桜の馬場。南側には外堀に沿って広大な屋敷が2つ並びます。
生玉口の外の馬出し内には、織田上野介屋敷。堀は発掘された遺構から、堀障子が見つかり、だいたいの大きさと形が分かっています。
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二ノ丸の石垣が二段になっています。
桜井先生は、まだ高石垣はできず、犬走りが巡っていたかもしれない、と書いておられます。
そして冬の陣図屏風を見てみると、外堀沿いだけは、石垣とその上の建物との間に、樹木が描かれています。
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模型では、低い石垣の上に盛土をし、その上にもう一段高めの石垣(腰巻石垣、鉢巻石垣)を作ろうとおもいます。ちょうど江戸城の桜田堀沿いのような感じです。(ここまで盛土を前面には出しませんが)
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【二ノ丸北西部】
京橋口周辺です。
西ノ丸と京橋口の間に大野修理屋敷があります。絵図を参考に、北側には馬屋を想定しています。
京橋口の馬出しはサクノ丸、ササノ丸、サゝノ丸など名称にブレがあり、桜井先生はサンノ丸か?とおっしゃっています。宮上先生は篠の丸とはっきり漢字で書いちゃってます。
サクノ丸の形状に悩みました。M字形の空堀になっている絵図がいくつかあり、そのように復元する案が多いのですが、ちょうどこの辺りから150メートルに及ぶ直線石垣が見つかっています。積み直しの痕跡があるそうですか、この遺構を優先し、L字の空堀としました。
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【二ノ丸南東部】
玉造口の周辺です。
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玉造口を入ったところの「一等高シ家有」を悩んでいます。徳川期の雁木坂の脇にあたります。この下にある片桐市正屋敷より、現状ですでに一段高いのですが、さらに一段上げた方がいいのか…そうすると表御殿の地表より下手すれば高くなり、しかし、「一等」という表現が、それでも構わない気にさせてしまうのです…
算用曲輪の馬出しは、発掘遺構の石垣からこれもだいたいの規模が分かっていますが、遺構通りに石垣をつくると、どうしても曲輪が二段になってしまい(現在、野外音楽堂から玉造口に向かう時に長い階段を登る、急斜面です)解釈に迷いがあります。

【北東部】
現在青屋口がある辺りです。
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この辺りは城内で最も地面が低いところです。
現在青屋口があるところに「鷺島」と記す絵図があり、平野川も接近していますので、このあたりは低湿地帯であったとしました。名古屋城の北東部にも似た、天然の要害を利用した、この模型でもアクセントになりそうな部分です。
僊台武鑑の絵図には舟入や平野川との合流水路が描かれ、それを再現しました。川から船で米などを運び込むにはもってこいの場所です。
青屋口の場所は絵図によってバラツキがあります。桜井先生は鴨野橋に向かっていたはずだとおっしゃっておられ、ほぼ真北に置くことにしました。
鷺島を丸馬出しに描くものもあり、鷺島と青屋口が同一かどうかでかなり迷いましたが、徳川大坂城築城の際、青屋口をつくるために鷺島周辺の石垣工事に苦労したとの記述があるので、やはりこの辺りは沼地のような場所であったとしました。


いろいろ乱暴に取捨選択しましたが、絵図、これまでの学術成果、発掘調査結果を踏まえ、私の好みを隠し味に、模型のアウトラインが見えてきました!