去年の夏にご注文いただいてから、大変お待たせしてしまいました。
小天守二基を従えた江戸時代の姿は一度手がけてみたかったので、今回作ることができて感謝しています。
今回も彩色に主眼を置いて、質感を前面に押し出しました。突き上げ戸を取り付けて、開けた状態にしています。しかし江戸時代、天守は厳重に封鎖され、歴代の城主も一生のうちに数えるほどしか登ることがなく、いざ登るとなると城中が大騒ぎだったそうですから、窓が開いた姿は滅多に無かったのかもしれません。
広島城の縄張りは秀吉の聚楽第と大変似ており、天守は秀吉の大坂城の天守を不完全に写したものと言われます。築造年代ははっきりしていませんが、近年発見された資料により、文禄元年(1592)以前には完成していたようです。戦災で失われるまで残っていた天守の中で岡山城と並び現存最古の部類に入るものでした。
その後広島城には大本営が置かれ、軍の重要基地となりました。そして1945年の8月6日、原爆により一瞬にして壊滅してしまいます。
よく原爆により焼失と書かれますが、これは正確ではなく、衝撃波によって崩壊し、燃えることはありませんでした。
その瞬間の目撃証言によると、上の三層は形を留めたまま崩れていったそうです。
近年、広島城の学芸員の方が残された写真などからその瞬間を推定されました。それによると、南西方向から来た衝撃波で下層部分が押しつぶされ、石垣から北東方向にずり落ち、重みに耐えかねて崩壊したのではないかということです。
原爆が炸裂した瞬間、中心の温度は100万度を超え、爆心地近くの地表温度は4000度に達します。原爆ドームの屋根の銅板は一瞬で蒸発したため、衝撃波が通り抜け、建物の形を残しました。爆心から約1キロの広島城の樹木も葉が焼け焦げてしまったのでしょう。
豊かな水と緑に囲まれた往時の姿を、せめて模型で生き生きと再現してみたかったのでした。
雑誌の作例というのは、需要を全く無視していますので、その表現自体、製作自体が目的です。インテリアとしてとか、展示用にとかいうようなことは全く考えていません。どちらも自由に楽しんで作りましたが、自分でもよく位置付けが分かりません。城郭模型の幅を少し広げられたかな?と自賛してみたり。
この二作品は五月の静岡ホビーショーに出展します!
アーマーモデリングの誌面でもまたお目にかかることがあるかも(?)しれません。