さて、連載しております、大阪城落城その時。
石垣の上にある土塀は、それまでの掘立柱のものと違って、そのままでは倒れてしまいます。そこで、裏側に控え柱という柱を立てて支えるような構造になっていました(姫路城などでは柱などの構造材に頼らない土を固めたような土塀もありますが)。
裏側だし目立たないといえば目立たないので、いつもは省略していましたが、今回は作りました。
理由がふたつあって…
一つ目。夏の陣の臨戦態勢の城内を表現するため、この控え柱に板を渡し、仮設の多聞櫓のような設備をつくるためです。
↓このように
と書いたところで、写真を撮っていない!(笑)現物がまだ編集部から戻ってないので、はじっこにチラッと写っていたものを拡大します。
これは記録からも伺え、冬の陣の時の『長沢聞書』に「塀は二重塀、内に四寸五寸の角を乳通りに重ね、塀の屋根より鉄砲打ち申す様に、板にて五尺屋根にし…」とあり、角材を通し板を張って二階建のようにして屋根の上からも攻撃したのです。
外堀が埋められ、本丸だけになった夏の陣では本丸内も同じように臨戦態勢だったと想定して、控え柱を使った仮設の「二重塀」を再現してみました。籠城はもはや考えていなかったかもしれませんが…
本陣旗を立てたい!ということで、旗を作ったはいいのですが、実際はどうやって立てたのか、手元にある資料には載っていないので困りました。控え柱に取り付けたかなあ、と勝手に想像してそのようにしました。詳しくご存知の方、教えて下さい。
軍旗は専門外なので、今回初めて調べたのですが、標準的なのぼりが1丈2尺×2尺ちょっとぐらいだったそうなので、このジオラマの旗の大きさは、縦1センチ×幅2ミリでつくりました。
大河ドラマでも天守の武者走りに旗が立てられていましたね。そちらは紺地に金で桐の紋をあしらった木綿ののぼりのようでしたが、このジオラマでは総金ののぼりにしています。
五月七日、落城の日、大坂方は未明から全軍のほとんどが城を出て決戦に備えて陣取りました。本丸に残ったのは秀頼とわずかな近臣のみ。
両軍の決戦の火蓋が切られたのが正午頃。徳川方先鋒本多忠朝隊が我慢できず、毛利勝永隊に向かって威嚇の鉄砲を撃ち始めたことから、なし崩し的に開戦となりました。「鉄砲ぜり合い」と言われます。
敵味方の区別もつかないほどの乱戦の中、真田幸村は家康の本陣に攻め込み馬印を倒すなど奮戦しますが戦死。はじめは五分五分の戦いでしたが、数の力に押され午後3時頃には名だたる武将が討ち死に、残兵が城内へ敗走をはじめると徳川方がそれを追って三の丸になだれ込み始めます…。
この日の朝、秀頼は家康と決戦する覚悟で一旦桜門まで出ています。この時秀頼は太閤秀吉相伝の切裂二十本、茜の吹き流し十本、タイマイの千本槍を押し立て士気を鼓舞したと伝えられ、その様子は「夏の陣図屏風」にも描かれています。(夏の陣図屏風。桜門外、総金の切裂と茜の吹き流しが見える秀頼の本陣。ただし秀頼は不在)
次回はいよいよ落城その時です。