アーマーモデリング12月号に掲載されました「大坂城炎上」です。田舎なので世の中より若干遅くようやく入手しました。
それにしても、こうやってAFV専門誌に錚々たる方々の最新の作例と並んで載せられると、いかにお城模型の世界の技術が遅れているか痛感させられます。スケールは違うとはいえ、こちらは300分の1くらいからもっと小さな世界での表現の仕方を研究していかないといけないな、と思いました。
この度の天守です。いつかはやりたかった、金の紋章がビッシリのバージョンです。
豊臣大坂城を描いた屏風絵の中ではもっとも古く、もしかすると天守があった頃まで遡るかも…といわれます。
今回はご覧の通り、パッと見ると大河ドラマの復元案に近いシルエットですが、かなりアレンジを加えています。二重目に東西向きの大入母屋を設けました。外壁は真壁造り、土壁は白壁としています。逓減の仕方にも工夫を加え、地面からの立ち上がり方もオリジナルです。
しかし一体窓をどのように設けたか謎で、突き上げ戸になっていたのか、開き戸になっていたのか、そうだとすれば紋が半分から割れてしまうし…など考えれば考えるほど答えが出ませんので、理屈は無視して、デザイン重視でいきました。ですのでこの天守には窓がありません(笑)。
350分の1という今までつくった豊臣大坂城の中では最大サイズということもあり、重量感が出ました。
しかし一体窓をどのように設けたか謎で、突き上げ戸になっていたのか、開き戸になっていたのか、そうだとすれば紋が半分から割れてしまうし…など考えれば考えるほど答えが出ませんので、理屈は無視して、デザイン重視でいきました。ですのでこの天守には窓がありません(笑)。
当初、天守の炎上も視野に入れましたが、その少し前としました。
天守に火がかかった時間は記録によって少し差があります。井伊家臣の手紙には「七つ時分に落城仕り候」とあり、4時ごろであったとします。毛利秀元の書状には「八つ時分(三時頃)より薄暮」とあり、細川忠興によれば「御天守も申下刻(五時頃)に火かかり」とあって、三時頃には城内から火の手が上がり、まだ日の暮れない夕刻に天守が燃え始めたということでしょう。なおも夜中まで大坂城は炎を上げ続けます。その火は京都からも見えたといい、京都御所の屋根から夜半まで見物したという公家の日記があります。
天守の炎上は御殿から類焼とも、また豊臣方が自ら火を放ったとも情報は錯綜しています。一度は天守での自害を覚悟し、秀頼は天守に焼け種(やけくさ)を込めさせたといいます。京極高時も城の北側から、両方の破風から火炎が出て燃え上がったのを目撃していますから、外側からの類焼ではなかったかもしれないと桜井成広先生の指摘もあります。
豊臣大坂城関連ですが、なんと!大規模な復元模型のご依頼を頂きました。
豊臣大坂城の二の丸、および馬出しまで入れた全景模型です。