いつものように、図面を縮尺通りに複写したものを使って、断熱材をカットしていきます。
高さについてはのちほど。
天守台は大変複雑で、建物を乗せながら微調整しつつ進めます。
(『大坂城 天下一の名城』、宮上茂隆著、穂積和夫イラストレーション、草思社)
地面の断面は必ずプラ板で囲います。この部分、模型の完成度にとってかなり大切です。今回は先に塗装してしまい、台枠とともにマスキングして作業を進めます。
石垣の表面はこのあとペーパーがけをして石の彫刻に進みます。
石垣の芯となる造形が出来ました。今回からスチロールカッターを導入。
その後石粉粘土で石垣の表面をつくります。
天守台内部もつくりました。完成したら隠れてしまいますが。
このイラストがもとです。(『大坂城 天下一の名城』、宮上茂隆著、穂積和夫イラストレーション、草思社)
地面の断面は必ずプラ板で囲います。この部分、模型の完成度にとってかなり大切です。今回は先に塗装してしまい、台枠とともにマスキングして作業を進めます。
台枠はA4サイズ用の額縁を使用しています。水堀の底が枠の分だけ低くなっていて、これが最終的なシリコンの深さになります。
私は水堀や池などの表現があるときは、水面を枠より低く作らず、台と同じ高さになるよう努力しています。
詰の丸側の天守台の納まり。地面から直接天守が立ち上がっている部分は1ミリくらいの隙間を空けています。これはこのあとで
雨落ち溝を作るので、その分地面が高くなるからです。
先ほどの石垣の高さですが、中井家「本丸図」にその記載があります。
豊臣期の大坂城の図面は上の写真のように4枚確認されていますが、それぞれの図面で数値に違いがあったり、ばらつきがあります。
先ほどの石垣の高さですが、中井家「本丸図」にその記載があります。
豊臣期の大坂城の図面は上の写真のように4枚確認されていますが、それぞれの図面で数値に違いがあったり、ばらつきがあります。
4枚の図面の数値の比較一覧表がこちら。
この数値を元に高さは見当をつけていきます。
例えば水堀沿いの石垣の高さは8間9尺5寸ですが、これは水底からの値です。水深は分かりません。ここで参考にするのが現在の大阪城。大阪城本丸東側の高石垣は日本一の名高いものですか、その高さ32メートル。その内訳は水面から24メートル、水面から堀の底まで5メートル、堀底から根石までが3メートルといわれます。
ここで豊臣時代と徳川時代の大坂城の重ね合わせ図を見てみると、徳川期の方が水底が高くなっていることがわかります。
これはもとの堀底の位置は本当は変わらないけれど、堆積物で3メートルほど埋まったという解釈なのでしょうか。
これはもとの堀底の位置は本当は変わらないけれど、堆積物で3メートルほど埋まったという解釈なのでしょうか。
答えは出ませんので、水面は現在と同じ、水深は8メートルと考えます。
8間9尺5寸は約17メートル半、水深が8メートルとするなら10メートルほどが水面からの高さとなります。これを457分の1にすると約2センチになります。
あと、東中ノ段帯曲輪は、高さが分かりません。
そこで参考になるのが、去年大坂城の本丸全景を製作中にネット上で見つけた早稲田大学所蔵の大坂城の図面です。
この図面に、東中ノ段帯曲輪の高さが1丈1尺と書かれており、約3メートルであったことがわかります。山里側の天守台高さは八間と書かれており、これも新しい情報です。しかしなぜここだけ1丈1尺という表示なのでしょうか。他は間表示ですが、この部分は1丈(=10尺)と尺表示です。本丸図の数値は間表示なのが問題で、1間という単位は、6尺5寸であったり、7尺であったり、太閤検地の1間は6尺3寸ですし、ばらつきがあります。最近、本丸図の1間は太閤検地尺が使われたという説が出て興味深いです。
ただ、私の目にはかなり新しい図面に見えるので、信頼性は謎です。
このように高さは自分で割り出していきますが、模型にした段階でさらに自分の目で補正を行い、たとえば水堀沿いの石垣はあえて3ミリほど高くしたり、模型としての見映えや迫力を加味していきます。