しかし、屏風絵というものの性格をよく知る必要があります。
例えば下の二つの屏風、何を描いたものでしょうか。
これらはどちらとも、徳川期大坂城の天守を描いたものです。
徳川大坂城の天守は図面が残っていますので復元がある程度可能です(図面に二種類ありますが)。
(岡本良一 編『大坂城の諸研究』付図
松岡利郎作図徳川時代大坂城天守立面・断面図)
屏風絵と全く違いますね。屏風絵では最上階は高欄が巡っていますし、どちらとも真壁造です。上の「大坂市街図屏風」は比翼千鳥破風や据唐破風が描かれているところにかろうじて徳川期の匂いはしますが、全く現実の姿とは異なります。黒塗りの突き上げ戸が描かれたり、かなり細部まで描き込まれているようですが、そもそも4層であるなど、図面から復元された姿とは程遠い外観です。
もし、この屏風絵のみを資料として徳川期大坂城の天守を復元していたら、全く架空の姿を作り上げることになります。
屏風絵というものはその程度のものだということをまず理解せねばなりません。
現実の姿をありのままに写し取る、いわゆる写生という概念は、江戸末期に西洋の影響を受けるまで無かったのです。
しかも特に障屏画というものは、装飾絵画ですので、いかに派手に空間を飾るかが第一義です。絵師が絵の元としたのは現実の風景ではなく、師匠が描いた手本です(粉本といいます)。絵から絵を生み出していくのです。
現実の姿とは全く異なる架空の姿であっても、それが城であることがわかり、また美しければまったく問題ないのです。
ですから、屏風絵とにらめっこして、破風の構成や壁面がどれも違う、なぜだ!と真面目に考えるのはある意味バカらしいことでもあります。
しかし、全く無視していいかというとそうでもなく、例えば豊臣期大坂城の場合、本丸の図面があるわけですから、その対応具合で、どれだけ正確にその屏風絵描かれているかという評価はできます。
その中から、情報の取捨選択をし、復元が進められるのでしょう。そして、その取捨選択の違いで、復元案の姿は様々に異なります。
冬の陣図屏風。
表御殿辺りの描写はかなり忠実です。本丸に食い込む水堀も描かれています。
冬の陣図屏風と京大坂図屏風に描かれるものに、方形造の櫓があります。
しかしこれも、実際の風景を見ながら描いたものではなく、本丸図のような図面をもとに製作された可能性もありますから、実際にあったとは言い切れません。
(以下9月19日夜追記)同時に、この櫓の姿が豊臣大坂城の特徴的なものだということで、記号として描かれた可能性もあり、それだけ屏風絵というのはどこまでが創作や想像で、どこまでが現実の姿をもとにしているのか、その線引きがあやふやなものであり、説明さえつければどんな解釈も可能な困ったものなのです。(追記ここまで)
天守は西面に妻を見せる形で大入母屋が二重に重なる姿。北側の一層目が縋破風の様に長く葺き下してあります。武者走りを覆った蔵という説があります。二層目の大入母屋には唐破風があります。その上の階の壁面が、和様の斗栱らしきものでせり出しているのも特徴です。最上階の入母屋は南北栄となっています。
私は、秀吉の大坂遷都計画も含め、大坂城は南向きを意識したつくりであったと考えますので、最上階の屋根は東西栄ではないか?と思ったりするのですが、城下からの眺めも当然意識したであろう、この二層目大入母屋につく唐破風の出窓はとても魅力的です。
この冬の陣図屏風、現物は残っておらず、下図の形で伝わっています。成立は豊臣大坂城が失われた後とみられますので、天守や櫓に見られる寺院の様な斗栱や火頭窓含め、全体にわたり、豊臣期への憧れが生み出した創作である可能性も考えねばならないでしょう。
そもそも、俯瞰した視点というのはあり得ないのですし…