豊臣期大坂城本丸、最後の区域となりました山里曲輪、芦田曲輪です。
この部分は中井家「本丸図」では空白になっており、芦田曲輪部分に井戸がひとつかかれているだけです。
今回の模型では、醍醐寺三宝院などを参考に全て推定して製作いたしました。詳しくは山里部分の製作記事をご覧下さい。
今回の記事ではその時に触れなかった内容を書きます。
図面としては残っていませんが、山里での出来事はさまざまに残っております。秀吉が千の利休、津田宗及といった茶道の天才と侘茶を楽しんだのもこの山里でした。大名の厚遇のしるしに、この山里で秀吉自ら茶をふるまいました。三畳敷の茶室で濃茶と料理を振舞ったあと、さらに狭い二畳の茶室に移って薄茶を飲ませるのが恒例でした。また、明の使者を千畳敷で中国風に盛大にもてなしたあと、使者からの書簡を読んで激怒し、着ていた中国風の装束を脱ぎ捨て、頭から湯気を立てたというのもこの山里です。おねが一日中藤棚の下で花見をしたり、淀殿が観桜の宴に興じたのもここです。冬の陣には金の法馬を溶かして「竹流し」という急造の貨幣にしたり、夏の陣の最後にはここで秀頼と淀殿が自害した場所です。
現在の大坂城の山里の地表は、豊臣時代とほぼ変わらないといわれ、かなり浅い部分から遺構が発見されています。曲輪の形も大変似ており、東北隅の石垣の119°が一致することから、桜井氏は本丸図との重ねあわせの開始地点としておられます。また、この部分の水堀が狭くなっており、日あたりの関係から城内を拡張したあとではないかとの指摘もされています。
曲輪の北には搦手となる極楽橋が架かっております。これも制作記事で書きましたが、のちに移築され、竹生島に今も一部が現存し、豊臣大坂城の唯一の遺構です。極楽橋が京都の豊国社に移築されたのが慶長5年のことですので、今回の模型は千畳敷とこの極楽橋両方が存在した、慶長元年から慶長5年の間の姿ということになります。
極楽橋を入った先は、宮上氏の考証ではそのまま石垣沿いに真っ直ぐの道を想定してありますが、夏の陣でここから攻め込んだ松平忠明の覚書には、橋を渡って曲輪内に入ると門があって開なかったとあり、桜井氏は極楽橋内すぐ左手の階段上に門があったと推定されています。私も枡形をつくり、まっすぐ進めないように想定しました。(赤矢印)。また、極楽橋の二階部分から櫓門の中を通って山里に出るルートも想定しています(黄矢印)。
芦田曲輪は城内の警護の者たちの長屋、土蔵などが想定されるようです。西北隅の舟入りは、本丸図からは断定できませんが、桜井氏の推定を宮上氏も引き継いでおられるようです。
また、山里から詰の丸へ上がる部分に2層の楼門をつくりましたが、これは鳥羽正雄博士が戦前に所有し、焼失したと思われる「秀頼公御代大坂城之図」のこのあたりに、竜宮作りの楼門が書き込まれていたのを見たと、桜井氏が記述しておられるので、楼門を想定しています。
ちなみに、大坂の陣が起こる前の年、慶長18年に豊国廟を山里に造営しています。これはその鳥居のあとや参道の石畳が発見されており、天守の高石垣の下にあったことがわかっています。
秀頼は落城の際、天守に登り潔く切腹する心でいたところ、老臣が思いがけず運が開けることも古来よりあるから主将は死に急ぐべきではないと進言し、天守を下り、月見矢倉の下から芦田曲輪(山里曲輪)の朱三矢倉へつぼんだと『夏御陣覚書』にあるそうです。下の赤い矢印のルートで「つぼんだ」のでしょう。
天守が焼け落ちた翌5月8日に、外から鉄砲を打ちかけられ、中から火を放って秀頼と淀殿一行は自害します。
この朱三矢倉ですが、これも本丸図には記載がなく、文献からの推定です。
文献により記述は様々で、「糒庫(ほしいいぐら)」とも、「荒和布蔵(あらめぐら)」とも「天守下ノ丸の蔵」とも「やけのこりのどぞう」とも言われます。場所は「東腰廓」や「山里の南東の方」とあるらしいので、ちょうど山里から東の下ノ段帯曲輪へつながるあたりだったと思われます。ちょうど豊国廟の裏手です。櫓というより蔵の雰囲気が強く、今回の模型でも土蔵として再現しています。
現在の山里には、「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」の石碑があり、ここから見上げる石垣は当時の天守台を思わせ、豊臣期の情景を思い浮かべることができる場所です。