本丸の各部分のエピソードをまとめた解説です。
本丸大手桜門です。
「本丸図」の記述は「桜御門」。門前には大きな腰掛け、門の内外に番所があり、表にもう一つ「御門」があり、枡形を作っています。大手にふさわしく堅牢な守り。人の出入りを厳しく取り締まります。
桜門は「夏の陣図屏風」を見ますと、総漆喰塗籠の真壁造。
今年は、夏の陣からちょうど400年の記念の年です。
夏の陣の決戦は慶長20(1615)年5月7日。正午頃に戦闘の火蓋が切られ、夕刻頃には天守が炎上します。このとき秀頼は、決戦を期してこの桜門まで出馬したものの、老臣 速水甲斐らが本丸を固めるよう進言し千畳敷に引き上げます。この「夏の陣図屏風」には、秀頼の姿は描かれていませんが、白い母衣(ほろ)を背負った大将の使い番が描かれており、桜門内に秀頼がいることを暗示しています。
徳川大坂城でも桜門の名は残っていますが、豊臣期よりも東寄りに設けられています。
豊臣期でいうと、表御殿の遠侍のあたりです。
先日大阪城に立ち寄りましたのでその時の写真ですが、↓現在の桜門。
豊臣期にはこの目の前に千畳敷がありました。
桜門を入ると築地越しに米蔵のある広場が。
現在の紀州御殿の日本庭園の池あたりが米蔵の場所です。
表御殿。今回は千畳敷を作っています。
これは明からの使者を迎えるために建てられました。しかし、使者を迎える直前に慶長大地震が発生、伏見城は倒壊、大坂城も大きな被害を受けます。このとき千畳敷も倒壊したとの資料もあり、また天守も大きなダメージを受けたといいます。しかし急ごしらえで修復をし、間に合わない部分は美しい布で覆い隠すなどして使者を迎えることとなります。
堀を隔てて舞台があり、その往来のために橋がかけられました。舞台の鏡板は金梨子地の蒔絵だったといいます。堀の石垣に音がこだまし、音響効果も抜群だったのでは?
夏の陣では、桜門から引き上げた秀頼はいったんこの千畳敷に来ますが、もはや誰も彼も逃げ支度に夢中となっており、やむなく御座之間に退きます。
徳川方、越前松平忠直隊の兵士が、本丸へ一番乗りの証拠として、千畳敷の大床の絵を剥ぎ取って持ち帰りました。それが福井県の藤垣神社にのこる「柳橋水車図」と「千鳥図屏風」で、千畳敷の貴重な遺品です。有名な長谷川等伯の同名の屏風とは別物です。念のため。
落城する大坂城から逃げ延びた奥女中のおきくの証言をまとめた『おきく物語』には、おきくはこの日、千畳敷の縁に出てみると、方々から火の手が上がっているのが見えたとあります。
太閤以来、直属の親衛隊の黄母衣衆の一人であった郡良列(こおりよしつら)は、秀頼の旗と馬標を千畳敷に持ち帰り、それを置いて自害します。
千畳敷は、豊臣期大坂城の栄枯盛衰を象徴する建物の一つです。
【参考文献】
『豊臣大坂城』、笠谷和比古・黒田慶一、新潮社
『豊臣秀吉と大坂城』、跡部信、吉川弘文館
『豊臣秀吉の居城 大坂城編』、櫻井成廣、日本城郭資料館出版会
『日本名城集成 大坂城』、岡本良一、宮上茂隆、櫻井成廣ほか、小学館