豊臣大坂城【山里曲輪完成】 | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

詰の丸が終わり、引き続き山里の普請です。

建物を配置。
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台所の外は薪などの蔵が必要でしょうから長屋をつくり、長屋門をくぐって台所に至ります。

建物の塗装。
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池に石を配置。結局、二階建ての楼は広間の隣に持ってきました。その方が広間の広縁から楼を眺められると思ったからです。三つの茶室は築山の中に二つ、松林の中に一つ置きました。

植栽。
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庭の南を築地塀で仕切ったのは、京都の寺院の庭に倣ったこともありますが、奥に下の段帯曲輪に繋がる隠し小門があるのと、その手前の空き地に土蔵を想定するからで、そこに至る経路を確保するためでもあります。

蔵を3つ配置して山里の完成です。
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なぜ3つかというと、秀頼と淀君の自刃は天守下のこのあたりの朱三櫓と言われますが、これは糒(ほしいい)蔵とも、単に焼け残りの土蔵とも伝える文書もあり、櫓というより蔵の雰囲気が強いのです。朱「三」とあるからは一と二があっても自然で、三つの土蔵として推定しました。夏の陣の際には、まさにこの辺りには豊国廟がありましたので、秀頼、淀君は蔵に隠れたというより、太閤秀吉の廟を最期の地と選んだと私は思っています。

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山里曲輪は他にも歴史的な出来事がたくさんあります。また後日。

今回は一円玉。どーん。
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