詰の丸の建物の建て込みが終わりました。
多聞櫓を作るのに、初めてシリコン型を使っての複製に挑戦しました。手こずりましたが、型が出来てしまえば簡単に量産できるのですね。
西から。
ここは本丸図ではなぜか空白になっています。わずかに遺された文書の記述や、発掘の結果から想像するしかありません。言い方を変えれば、好き勝手できる部分です。
ご覧の通り、天守の北にあたる山里は、天守と高石垣の陰になって日当たりがよくありません。
昭和のはじめの発掘で、池の跡が見つかっています。また、終戦まで、豊臣時代の台所の井戸と伝える枯れ井戸があったといいます。
櫻井氏の図面に書き込まれています。
これで台所の位置と、庭の位置がだいたい予想できるのですが、池はあくまで一部分の発掘で、もっと続きがあったのか、全体として見つかったのか不明です。南向きの建物だとすると、醍醐寺三宝院のように、建物の前まで広く池があることも考えられます。醍醐寺三宝院の庭園は、秀吉自ら構想、設計したことで有名です。
発掘された池を拡張し、三宝院を参考に平面を推定しました。
池は岬や小島を浮かべた変化のある形にし、天守およびその高石垣は岳山に見立てられたに違いなく、池奥には築山を想定、その中に茶室が点在していたと推定しました。茶室は四畳敷、三畳敷、二畳敷の少なくとも3つがあったことが知られています。
また、松林があったことも分かっていますが、「摂津大坂籠城図」には、冬の陣の前の年に山里に作られた豊国社の西に「松山」の記載があります。