豊臣大坂城【詰の丸→山里】 | 城郭模型製作工房

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城郭模型作家・島 充のブログです。日本の城郭および古建築の模型やジオラマの製作過程を公開しています。

中断しておりました豊臣大坂城、再開しております。
詰の丸の建物の建て込みが終わりました。

多聞櫓を作るのに、初めてシリコン型を使っての複製に挑戦しました。手こずりましたが、型が出来てしまえば簡単に量産できるのですね。
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全ての建物が揃った詰の丸。
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米蔵方面から
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東側から
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天守見上げ。
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西から。
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お決まりの爪楊枝。どーん。
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山里曲輪に移ります。
ここは本丸図ではなぜか空白になっています。わずかに遺された文書の記述や、発掘の結果から想像するしかありません。言い方を変えれば、好き勝手できる部分です。

ご覧の通り、天守の北にあたる山里は、天守と高石垣の陰になって日当たりがよくありません。
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建物は曲輪の北側に、南向きで建っていたと想定します。
昭和のはじめの発掘で、池の跡が見つかっています。また、終戦まで、豊臣時代の台所の井戸と伝える枯れ井戸があったといいます。
櫻井氏の図面に書き込まれています。
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これで台所の位置と、庭の位置がだいたい予想できるのですが、池はあくまで一部分の発掘で、もっと続きがあったのか、全体として見つかったのか不明です。南向きの建物だとすると、醍醐寺三宝院のように、建物の前まで広く池があることも考えられます。醍醐寺三宝院の庭園は、秀吉自ら構想、設計したことで有名です。
発掘された池を拡張し、三宝院を参考に平面を推定しました。
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台所を井戸の西に推定。玄関・遠侍は詰の丸から降りてきた先に西向きで開き、そこから雁行する形で、南向きの広間、田舎風座敷、楼などを想定します。
池は岬や小島を浮かべた変化のある形にし、天守およびその高石垣は岳山に見立てられたに違いなく、池奥には築山を想定、その中に茶室が点在していたと推定しました。茶室は四畳敷、三畳敷、二畳敷の少なくとも3つがあったことが知られています。

また、松林があったことも分かっていますが、「摂津大坂籠城図」には、冬の陣の前の年に山里に作られた豊国社の西に「松山」の記載があります。
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詰の丸から降りてきた階段の先、遠侍に至るまでの空き地に松林を想定しました。