本丸図をもとに築地塀を立てます。
実際に立体にしてみて、この築地塀には、防犯はもちろんですが、もう一つ大きな意味があることに気づきました。それは作庭です。広間、対面所、小書院&御殿と、それぞれの建物で区切られています。おそらく、各部屋から眺める庭は全て趣向を変えて、それぞれの景色を楽しんだのでしょう。
実際に立体にしてみて、この築地塀には、防犯はもちろんですが、もう一つ大きな意味があることに気づきました。それは作庭です。広間、対面所、小書院&御殿と、それぞれの建物で区切られています。おそらく、各部屋から眺める庭は全て趣向を変えて、それぞれの景色を楽しんだのでしょう。
庭への植栽。屋根のツヤも消しました。鉄御門周りは土木工事中です。
宮上氏は武者だまりとして復元してありますが、夏の陣図屏風を見ますと、ちょうどこの辺りに、天守に匹敵するような建物が描かれています。千畳敷のある表御殿と天守のある詰めの丸の中間地点でちょうど先ほどの石垣のあたりです。これは家康が西の丸につくった天守を象徴的に描いたとも言われます。
この建物について、黒田慶一氏は、家康の西の丸天守であろう、とした上で、
「慶長6年3月、家康が大坂城を退去後、淀君たちが取り壊して詰めの丸の大手正面虎口の横に移したものと思われる。(中略)詰めの丸の渡り門をくぐる時に左側にあった築台上である。」(新潮選書『豊臣大坂城』)
とさらっと書かれております。ええっ!そんなことやっちゃうの?淀君。大嫌いな家康の建物を詰の丸の大手に持ってくるかいな、と突っ込みたくなるのですが、同時に次のような文が続きまして、むしろそちらに興味を惹かれたのです。
「『大坂御陣覚書』に「大手の大矢倉より見渡せば」とあるのは、この櫓のことだろう。」(前掲書)
ほうほう。大矢倉。桜門周辺には大きな櫓はなさそうだし、確かに詰の丸大手の鉄門脇には例の空き地が。しかし、この『大坂御陣覚書』はいわゆる軍記物で、かなり創作が入っているようではあります。
とりあえず置いてみるとこんな感じです。
今回模型にして気づくことがたくさんあることを実感しています。前の記事で、天守台が東西に長いことを書きましたが、先ほどの櫓台も東西に長く(建物の有る無しは問題ですが)御殿の建物もほとんどが東西に長く、短辺(妻側)を東西に向け、長辺(平側)を南北に向けています。つまり、建物はほとんどが南向きに作られています。政治的に最も大切な対面所は表御殿にも奥御殿にもありますが、上段の間に座る秀吉は南向きで、つまり「天子は南面す」、君主は南を向くということを、建物が体現しているように思えます。