4【長崎2泊3日の旅】世界遺産:端島炭坑(軍艦島)上陸ツアー : 軍艦島上陸編~大浦天主堂 | せっかちOLの日本主要観光地を制覇する!

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日本国内の旅行に目覚め、飛行機や新幹線を使った日帰り旅行から2~3泊の日本国内旅行を楽しんでいます。目標は、日本国内の主要観光地、観光スポットをすべて訪れること!! 備忘録としてこれまでの旅行プランを少しずつアップしていきます。 

端島炭坑(軍艦島) @長崎県長崎市高島町端島 

 

【長崎県2泊3日の旅 備忘録】

世界遺産巡り:軍艦島クルーズ(端島炭坑上陸)~外海の出津・大野集落~黒島 2泊3日の旅 2023.11 

 

軍艦島(端島)上陸ツアー:軍艦島/端島炭坑上陸編

▼端島(はしま)/軍艦島上空写真。軍艦島コンシェルジュ公式サイトからお借りした写真です。

 

▼軍艦島上陸後にツアーで散策したのは、左側の赤いルート(第1~3展望エリア) のみ。これは、どちらの軍艦島上陸ツアーに参加しても同じだと思います。わたしが参加した「軍艦島コンシェルジュ」のツアー参加者が上陸している間にも、他のツアー参加者の皆様が多数上陸していらっしゃいました。

【長崎市観光サイトより】

長崎港の沖合18.5kmに浮かぶ軍艦島。ここは2015(平成27)年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録された小さな島です。
江戸時代に良質な石炭が発見され、1890(明治23)年に三菱によって買収されたことを機に本格的な採掘がスタートしました。岩礁にすぎなかった島は護岸が整備され、埋め立てによって拡張。鉄筋コンクリート造りの建物が建ち並び、みるみるうちに人工島に。その全景が長崎造船所で作られた「軍艦土佐」に似ていることから、「軍艦島」と呼ばれるようになりました。

最盛期には約5300人が住んでいたという軍艦島。当時三種の神器といわれた電化製品の普及が速く、なかでもテレビの全国普及率は当時10%ほどでしたが、軍艦島ではなんと100%。映画館やパチンコ店といった娯楽施設もそろい、坑員の給与は公務員の平均給料の1.5~2倍といわれ、裕福な暮らしぶりだったことがわかります。


その後、エネルギー革命により石炭産業が衰退。軍艦島は1947(昭和49)年1月に閉山し、わずか3カ月後には無人島に。島内には廃墟となった鉄筋コンクリート造りのアパートや炭坑の生産跡地が残り、かつての暮らしの気配と日本の近代化の歴史を静かに伝え続けています。

 

 

軍艦島上陸の際も、スーパープレミアム乗客 > プレミアム乗客 > スタンダード乗客、の順番で下船します。

 

下矢印ここから軍艦島上陸後に撮影した写真です。

 

@14:30過ぎ~、スーパープレミアムから下船。一番最初に上陸したので、第一見学広場に真っ先に着いて、続々と下船してくる皆様を撮影。

 

▼この塀の向こう側に船が停泊しています。

 

▼第一見学広場から周辺を撮影してみました。

 

 

 

 

 

第一見学広場 > 第二見学広場 > 第三見学広場、で集まって諸々説明を聞き、集団で次へ移動。最後の第三見学広場では若干の自由時間があり、各自船に戻る、というプランです。

 

日傘をさしている人が私も含めて4~5人いましたが、軍艦島内では日傘使用禁止、ということで注意を受けました。11月とはいえ、日影は一切なく、日差しがものすっごく強かったので、ストールで凌ぎましたが、お帽子があるといいのかもしれません。

 

▼第二見学広場で撮影。

Super Premium乗客は、だいたい最前列で説明を聞くんですけど、なんとなく自ら好んで一番後ろに移動しました(*^^*)

 

 

 

 

 

 

 

▼肥前端島灯台

 

第二見学広場の説明の中で、衝撃的な事実が発覚びっくり気づき気づき気づき

 

一生懸命廃墟となった軍艦島(端島炭坑)の建物を見学&撮影してきましたけど・・・端島炭坑で世界遺産の構成資産となっているのは、なんと、これ下矢印下矢印下矢印 

 

▼明治時代に建設されたこの護岸びっくり気づき気づき気づき

 

コンクリート製のビル群等は大正時代以降に建設されたもので、世界遺産の構成資産ではないそうです( ´艸`)www これ、個人的に、軍艦島上陸ツアーに参加してこの場で説明を聞かなかったら、一生知る由もない事実笑ううさぎ笑ううさぎ笑ううさぎ

 

【世界遺産 文化遺産オンラインより】

詳細解説 端島炭坑は,高島炭坑の技術を引き継 ぎ,発展させ,炭鉱の島として開発された。 明治中期以降に採炭事業が本格的に開始し,1890 年からは三菱の所有となり,明治後期の高島炭鉱(高島,端島による海洋炭鉱群)の主力坑となった。高品位炭を産出し,国内外の石炭需要を賄った。明治末には八幡製鐵所へも原料炭を供給した。 産業活動の停止と住民の撤退後,現在は,坑口等の生産施設跡や数次にわたり拡張された海岸線を示す護岸遺構が残存する。(崩壊寸前のコンクリート高層住宅群は,大正時代以降に建設されたものであり,顕著な普遍的価値を反映する要素ではないが,文化財としての価値を持つ。)

 
▼第二見学広場の説明の中で、ちょっとジーンとくるお話が・・・
 
北海道から御年90歳近くのご婦人が端島炭坑を訪れ、車いすで観光なさったそうです。北海道から遠路はるばる端島炭坑に足を運んだ理由は、旦那様を夕張炭鉱で亡くしており、人生を終える前に自分の夫がどんな環境で長年働いていたのか自分の目で確かめる為。夕張炭鉱は、博物館の見学のみで、端島炭坑のように実際の炭坑だった場所を訪れることはできないらしく、炭坑の当時のリアルな様子を見学できる、とうい意味でも、端島炭坑(軍艦島)の存在意義は高い、というお話でした。
 

 

 

▼第二見学広場 > 第三見学広場へ向かう途中に撮影。

 

 

 

 

▼昔々、この辺りでB’zのMusic Video が撮影された、とか言ってたような気がします。

 

 

 

 

 

▼第三見学広場

 

 

 

 

 

▼船に戻ります走る人音譜音譜音譜

 

 

 

 

 

 

▼最後にもう一度、世界遺産構成資産:明治時代に建設された護岸

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

▼船に戻ります。

 

▼その前に・・・港周辺の写真を撮影。

 

 

 

 

 

▼軍艦島と台風について。端島の台風による被害は、甚大です・・・

 

▼乗船!

@15:21。14:30頃から上陸したので、約1時間位”端島炭坑”に滞在 > 長崎港に戻りました。

 

基本、廃墟好きじゃないですけど、端島炭坑跡(軍艦島)はわりと興味深く拝見いたしました。個人的に何度も来るような場所ではありませんでしたが、最初で最後、上陸できて良かったです合格合格合格 

 

私の世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業」は、これで一区切りです(*^^*) やり切った感笑ううさぎ笑ううさぎ笑ううさぎ

 

軍艦島(端島)上陸ツアー:軍艦島/端島炭坑 > 常盤港

帰りの航路でも少し写真を撮りましたので、掲載します。

 

@15:47。行きにも撮影した帆船。とっても美しいお姿なので、通る度に撮影せずにはいられません(*^^*)

 

 

@15:48。

 

▼お隣に知らない人が座るほどの満席でしたが、ほとんどの方は後ろのオープンデッキにいらっしゃいます。

 

▼右奥に女神大橋が見えて来ました。

 

▼女神大橋

 

▼Sea Angel と書いてあるので、上五島の有川港<=>長崎の佐世保港の高速船のようです。

 

 

▼翌日に訪れる予定の『カトリック神ノ島教会』

 

 

▼神崎神社大鳥居

 

▼女神大橋を振り返って撮影。

 

 

 

 

▼稲佐山山頂展望台

 

 

@16:04

 

▼赤い橋は、旭大橋。

 

▼松が枝国際ターミナルに停泊中のCelebrity X Cruise 。常磐港まであと少しです!!

 

 

 

▼常磐港に接岸。@16:06

 

 

@16:08。軍艦島上陸ツアー船”Jupiter”を下船して撮影。

Celebrity X Cruise  x Jupiter のコラボ照れハートのバルーン

 

▼ちょっと早すぎですけど、Sunset @長崎港 

 

 

常磐港 > 大浦天主堂

軍艦島上陸ツアーを終えて、常磐ターミナルから歩いて『大浦天主堂』に行ってみました。前回訪れた時は、外観の補修工事中でまったく外観が見れなかったので、今回改めて(*^^*)

 

▼軍艦島上陸ツアー乗船場=常盤港から大浦天主堂まで、徒歩10分位で大浦天主堂です。

 

▼帰りは、大浦天主堂 > 長崎市松が枝町駐車場(軍艦島デジタルミュージアム前)まで、徒歩5分くらい。超便利!!

 

▼大浦天主堂

 

▼入場券を購入して中に入ります。

 

 

 

 

 

▼教会内撮影禁止だったので、公式サイトからお借りした教会内の写真。

 

▼大浦天主堂を横から撮影

 

 

 

▼キリシタン博物館(旧羅典神学校)

 

 

▼キリシタン博物館(旧長崎大司教館)

 

 

 

 


 

以上、『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産:大浦天主堂』でした。

 

【世界遺産オンライン公式サイトより】

大浦天主堂は、潜伏キリシタンが新たな信仰の局面を迎える契機となった「信徒発見」の場所である。それは自由に信仰を表明することのできなかった潜伏キリシタンが既存の社会・宗教と共生しつつ自らの信仰を継続することにより育んだ伝統が変容し、終焉を迎える契機となった場所である。

 

大浦天主堂は、19 世紀後半の日本の開国により来日した宣教師が1864 年に建造した教会堂であり、16 世紀に長崎において殉教した日本二十六聖人に捧げられた。献堂の直後、長崎近郊の潜伏キリシタンが密かに訪れ、自分たちの信仰を宣教師に告白した「信徒発見」の舞台である。その後に続く大浦天主堂の宣教師と各地の潜伏キリシタン集落の指導者との接触は、それぞれの集落において新たな信仰の局面をもたらした。

 

駐車場まで歩いて、宿泊先に向かいます車音譜音譜音譜