Un poisson rouge -94ページ目

回避と転換のメッセージについて。

人の意識について、考える。

毎日見るニュースには、
思わず目を覆いたくなるようなもの、
悲しみや怒りが湧いてくるもの、
そのような事柄で溢れている。

ニュースを見れば見るほど、そういった感情がただただ沸き起こり、無力感にさいなまれる。
正直に言えば、そのような感想を私は、ニュースを見る度に、抱く。

冷静に考えてみれば、ニュースになる話というのは、暗い話に偏りがちなのは当たり前のことだ。
否、本当は「当たり前」ではないかもしれないが、
(別に、明るいニュースばかり取り上げるニュース媒体があっても良いと思う。)
「ニュース」として扱われるものは、どうしてもセンセーショナルなものばかりだ。

基本的に、報道というものは、事実を伝える客観性が大原則であると思うが、
しかし、客観性とは、突き詰めればとても怪しい言葉でもある。

それは、誰の視点で切り取られたものなのか。
ニュースを見るときには常に、そのような問いを念頭に置いた方が良い、と思う。

そして、私は、考えてみた。

人の意識というものは、
多く聞こえてくるものや流れてくる言葉、映像に、恐らく、自覚的であれ無自覚であれ、影響を受ける。

たとえばネガティブな言葉ばかりを投げかけられて育てられたこどもは、
恐らく、否定的な考えを容易に抱きやすくなるのではないか。
(本でそのような話は、いくつも読んだことがある。)

そのように考えると、
自分が、この世界で起きている現象に対して何かアクションを起こしたり、メッセージを発信したりしたい場合に、
ネガティブなメッセージを送るか、ポジティブなメッセージを送るかで、
それを目にした人の意識に与える影響は変わってくるように思う。

このことを、最近割と深刻に考えている。

何かに対して、NOを言うこと、反対を表明するという意思表示は、
ときにとても重要なことである。

しかし、それを行うときは、かなり慎重に行わなければいけないのではないか、と
考えるようになった。(昔は、そんなことはほとんど意識しなかった)

何故なら、強いメッセージには、必ずと言って良い程、それに対する強い反発が生まれるからだ。

だから、「伝え方」はとても重要である、と、本当に思う。

メッセージは、良くも悪くも、人の心に影響を与え、人を煽動するような可能性をも秘めている。

だから大事なのだ、伝え方は。


何故、このようなことを考えたかというと、
それは、
現在、ガザ地区で起きている危機について、考えたためである。

私は、人を殺傷するためだけに武器等が存在し、それを作成したのももちろん人間であるという事実、それ自体が、とても悲しい。
そして、そのようなものの存在は、許されるべきではないと思っている。

血みどろの殺し合いを、どのようにして避けるべきか。

人間は長い歴史の中で、何度も何度も、国家間や民族間の殺戮を繰り返す中で、
その方法を少しずつ学んできたのではなかったのだろうか。

しかし、まだ、人は殺し合う。

では、一体どうすれば、
それを避けることができるのであろう。

人の意識を「争い」や「殺戮」そして「復讐」から
避けさせるには一体、どうすれば良いのであろう。

そんなことを考えては、頭が痛くなる。

自分という人間の中にも、
人間であるがゆえの、暴力性がある。

たとえば、物事がうまくいかないとき、
思わず人のせいにし、誰かを憎んだり、蔑んだりすることで、
自分の中に発生したそのような苦しみや怒りのような不満の感情を、消化させるのは、いとも簡単に落ちてしまうパターンだ。

しかし、そんなことをして一体、物事が好転したことが、一度でもあったであろうか。

無い。無いのだ。

結局、不満や怒りや苦しみを、外の何かに対して攻撃することで、
物事が好転することは、無い。
「攻撃」は、相手を思いやる心を持って、相手に対する愛情を持って表明する反対意見とは違う。

自分の満たされないことを、相手に満たしてもらおうとすることから行う「攻撃」は、プラスの効果を生むことは無い。

誰だって本当は、分かっているはずではないか。


私は、
人の中に生まれる、悲しみや怒り、不満等を、誰かを攻撃するという方法ではないやり方で、消化させる方法を、無論、自分も含めて、より多くの人が知るということが、必要ではないかと思っている。

それが、もし、ポジティブなメッセージを送ることで、
人の意識に対して、悲しみや怒りや不満に、攻撃的な火を注ぐようなメッセージではない影響を及ぼすことができるならば良いと思う。

攻撃に、至る前に。

煽るのではなく、回避する。

意識を、逸らす。

転換する。

そういった考え方がとても重要であると思う。



どうか、鎮まって下さい。



境界線

越えることのできない、線がそこにある。



あらゆる場所には、そんな線が存在していて、


すぐそこにあるのに、


その線があるから、届かない。


その線があるから、辿り着けない。





振り切っても振り切っても絶え間なく、


因果は続く。

映画『バッファロー'66』と、本『茶色の朝』

映画『バッファロー'66』は、言わずと知れた、ヴィンセント・ギャロと、アダムスファミリーの「ウェンズデー」、クリスティーナ・リッチが大人になって出て有名になったあの作品です。

有名だから、ストーリーは何となく既に知っていたし、シーンの断片を何度か目にしたことがあったような気がしたけれど、全部をきちんと観たことがなく、観れて良かった。
映画のことばかり書いていますけれど、TSUTAYA様にお世話になっています。
今、何だか色々なことを考えているととてつもない迷宮に迷い込むので、
映画を見たりしてバランスをとっています。。それって映画観る言い訳じゃん、て言われたらそれまでですけれど。。。

バッファロー、ですが、
クリスティーナ・リッチが、可愛いです。(目線、まつげ、真っ青なアイシャドウ、サラサラ金髪、タップダンス。)
そして、ヴィンセント・ギャロが、かっこいいです。(「生きていられない」か「生きていけない」と、嗚咽しながらトイレで言うところが、特に。。)

せつなくて、どこかユーモラスで、非現実的な設定であっても、人間観にとても頷ける、かわいらしい話でした。

前にもどこかで、もしかしたら自分はこんなことを書いたかもしれない、と思うけれど、
男の人の涙するところに、何だか、引かれてしまう自分がいます。。
泣くって、凄いことだと思うんです。感情の、本当に原始的な感情の発露、という感じが、します。

だから、弱々しく、落ち着きが無く涙する、決して、いわゆる勇ましく猛々しい男気のある感じじゃないヴィンセント・ギャロの役に惹かれてしまいました。(f○ck連発でしたけれど。)

監督しながら主演も音楽も手がけている作品なのですね、そしてこれ。また、写真も絵画もモデルもするマルチな方なのだそうです。ヴィンセント氏。

しかし、今この世相で見るべきヴィンセント・ギャロは、
バッファローより、『茶色の朝』だと思います。
友人を介して知ったこの本。
ヴィンセント・ギャロの手がけた挿絵が、とても素敵な本です。
そして何より、この可愛らしい本、ストーリーが、全体主義への警告をモチーフにしているのです。

この本は読んで絶対に、絶対に損は無いです。
小さな絵本なので、5分くらいで読めます。

ぜひ、ぜひ、ぜひ。