Un poisson rouge -125ページ目

肯定したいぞ。

自分のしたいこと、を考える中で、
「否定をしたくない」ということに気づきました。

ただ、「否定をしない」ということは、一見簡単なようで、
とても難しいのだということにも気づきました。

できれば、肯定的な気持ちで生きていきたい。
否、より積極的に言えば、
「肯定したい」のです。


たとえ0.000001であっても。
0.000001であっても、YESである。
それが、「生きる」ということではないか、と思います。



バカボンのパパは、言っていました。
「反対の賛成なのだ!」

反対なのに、賛成なのです。

私は、
ものごとを、肯定的に表現する、ということは、大切なことではないかと思っています。

だから、バカボンのパパに見習いたいものだにゃ~ろめっ☆

ジジェクとRadiohead

(自分にとって)やらねばならないことが、沢山あるのですが、
そんな中でも本を読みたい活字の渇望状態が止まらず、読んでいる本のひとつのことを書きます。
古本屋で見つけ、読みたいと気になった本です。

スラヴォイ・ジジェク著、中山徹訳『暴力ー6つの斜めからの省察』(青土社、2010)です。

学術洋書専門書店の営業という職業柄、社会・人文科学系の研究者の名前は沢山目にするのですが、実際そのような著者の著作を読んだことがあるかと言えば、あまりにも読んでいないのでは…と思うので、また、テーマに興味があり、手にしました。
暴力、て一言で言っても、物理的なそれ、心理的なそれ、と色々あると思うし、
それはどこから発生し、何をもってそれを受ける側が、暴力は暴力であると感じるのか、、、等々色々と疑問に思うことがあったのです。

難しいというイメージを払拭して下さる程、思ったより読みやすいです。
しかし、自分が本当に理解しているのかどうかは、果たして疑問…。

ひとつ思うことは、
考え抜かれた上で編み上げられた思想、というのは、
難解であるというより、詩的である、ということです。

自分が、本当の意味で、内容を理解できていないからなのかもしれませんが、
文章に、音楽的な、詩的なものを感じます。
実際、ところどころに、詩が引用されていたりすることも、その一因かもしれません。

Radioheadの曲名が登場する村上春樹氏の小説は、私にとってRadiohead的な匂いをあまり感じなかったのですが、
私は、何故でしょう、このジジェクの著作からは、Radioheadの匂いを感じます。。。
世の中に、訴えたいことがある、という意欲の血潮、とも呼ぶべき、それ。。

自分自身を集中モードに持っていき、気合いを入れて臨まなければちゃんと読めないのですが、
知の恩恵を授かりたい、考え抜きたい、知りたい、と思いを込めて読むと、のめり込める感じがします。
何より、修行の足りなすぎる自分に対する戒めになるような気がします。。。

この本の中で、響いた一節を、引用します。

「われわれの内面生活からくる経験、自分のしていることを説明するためにわれわれが自分に向かって語る自分自身の物語は、基本的には嘘である。真実は外側に、われわれのなすことのなかにあるのだ。」(P.66)

個性について(メモです)

もう朝では無いのですが、
そして休みをとったので今日はお仕事が無いんですが、
起きてすぐに浮かんだことを、どこかに書き付けておくことって、大切であるような気がします。

眠りから覚めたすぐ後の感覚って、特殊であるような気がするのです。
眠り、とはある種、普段目覚めて生活しているときに感じている現実世界とは異なる次元の世界であるような気がするからです。
その世界から現実世界にやって来てすぐの感覚は、
頭がクリアーで、何と表現したら良いでしょうか、「生まれたばかり」の感覚のような気がするのです。
そんなときに浮かんだアイデアは、普段の自分でも気づかないような思いがけないものであったりするのではないか、そんな風に思います。
本等でもよく、起きたばかりの状態は、アイデアが浮かびやすい、というようなことが言われているのを目にします。

と、言うわけで前置きが長くなりましたが笑、
私が今日起きて浮かんだことを書きます。

題名にもある通り、「個性」について、です。
実は今日に限らず何となくいつも考えている中で気づいたことなのですが、

「個性」とはつくるものではないなあ、ということです。

そんなこと言わずもがなであるかもしれませんが、
私は「個性」とは、本人が気づく気づかないを別にして、「にじみ出て来てしまう」ものではないかと思います。

自分て平凡だなあ、と思っている人がいるとします。
そして「個性的」な人になりたいなあ、と思うとします。
(そもそも「個性的」という言葉はその言葉自体が、「個性的である」と「個性的でない」を区別しているから存在しているわけですが、ここで私はこの言葉自体の意味を問いたいと思います。)

その人が、たとえば、分かりやすい形で、
日記を毎日つける、だとか、
何か同じ作業を続けてみたとします。

そして、ある程度の期間何か同じ作業を続けて、出来上がったものを、自分で見返してみる、そして他者に見てもらう。

そこに、何か特徴的なことが表れてくるのではないかと思うのです。
もしかしたら、それはやった本人も気づかなかったものかもしれません。
所謂「クセ」のようなものです。
(その人の持つ癖って、本人はなかなか気づかなかったりしますよね。)

その、「何か特徴的なこと」、そこに「にじみ出て来ているもの」、
それこそが、「個性」と呼ばれるものではないか、と私は思います。

だから、自分の個性が知りたいならば、それが分かりやすい形で立ち現れてくる、
何かの作業をある一定期間続けてみる、ということをやってみるのが有効なのかな、ということです。

そうすれば、本人がそれを好きでも嫌いであっても、否が応でも(笑)、何か「にじみ出てくる」特徴が、きっとあるはずです。
それを探求、追求していくと、何か面白いことができ、それこそ自分でも思いもかけず、世の中に「何か面白いこと」「何か良さげなこと」を提供できちゃうのかもなあ、と思ったりいたします。よん。
だから、ちょっと無理のある言い方で、逆説的かもしれませんが、
「にじみ出てくる」特徴=個性、というのは、その本人がそれを好きか嫌いかは別にしても(好きであるに越したことはありませんが)、財産のようなもの、であるのだと思います。きっと。
それを有効に活用すること。それが言ってみれば、ひとりひとりの人間に課されたこの浮き世に生きる、役割、のようなものではないでしょうか。(というのは言い過ぎでしょうか。)


いつも疑問ばかりが自分の中に渦巻いていて、
「言い切れる」ことは全然少ないし、本当に分からないことだらけであるなあ、むしろ分かることなんて本当に無いなあ、なんて、常日頃思うのですが、そんな中で感じた、「こうではないか」と思うことでした。メモでした。
でも、これも、全て考えていることを的確に表現できているわけではありません。。。
表現の力量の足りなさを感じます。

もっと、精緻に、もっと緻密に、
思考し行動し表現し、
つまり、
生きたいなあ、と思います。
一瞬一瞬。

そんな私はいつもモヤモヤしておりますっ。笑