Un poisson rouge -100ページ目

変わらない関心。【紹介】本『Because I am a Girl:私は女の子だから』

ぶれまくり、振れまくっても、結局いつも同じようなところに行き着く。

私は高校生の頃から、基本的にはあまり変わっていないんだ。

国際協力に携わりたい。

やっぱりその思いは、消えていない。

特に、今は、途上国の女性の問題に関心がある。

途上国の女性を取り巻く状況は、知れば知る程、どうにかしなければいけない、と私は思う。

HIV/AIDS、暴力、差別、レイプ等、様々な問題が、ある。

教育は、とても大切であると私は思っている。

だから、もっと英語力を鍛えて、現場経験を積んで、そういうことに携わりたい、と思う。


Planという国際協力NGOが、最近電車内の広告にも出している、途上国の女の子の問題を啓発する、キャンペーンのようなものがある。

それに関連する本で、おすすめの本があります。

『Because I am a Girl:わたしは女の子だから』(著者 :ティム・ブッチャー/グオ・シャオルー /ジョアン・ハリス /キャシー・レット /デボラ・モガー /マリー・フィリップス /アーヴィン・ウェルシュ、訳者 : 角田光代)(英治出版、2012)



可愛らしく鮮やかな装丁の本。海外の作家たちが描いた、それぞれの視点から途上国の女の子や女性に関する物語が編まれている。
実際に取材をして書かれているので、ノンフィクションと言ってもほぼ良いものなのかもしれない。
翻訳は、作家の角田光代さん。

こういった問題に、あまり接し慣れていない人(という言い方が良いのか、、すみませんが)であっても、読みやすいと思う。それぞれの作家たちの世界観、表現があって、非常に胸に響く本です。
美しい文章たちが教えてくれる、リアルな途上国の現実。





じかん

今日は、高校の友人の結婚式でした。

とても素敵な式で、本当に良かった。

私は友だちに恵まれているし、そんな友だちに随分と、寄りかかっては、甘えてきたなあ、と思う。

お嫁さんになる友だち。ドレスが本当に可愛くて、涙涙、でした。

高校のとき、
毎日がどきどきして、笑って、一所懸命に過ごせたのも、
友だちのおかげだと思う。
きっと彼女たちに出会わないで、文化祭の演劇の役に誘ってもらえなかったら、
孤独な高校生活を送っていたのではないかと、思う。
まさか自分がそんな役をやるなんて、全然思っていなかった。
新しい自分に出会わせてくれたのは、彼女たちだった。

気付けば、私はいつも友だちに救われている。
もともと人見知り、自分の世界の中にいて、かなりの時間をかけないと、人と仲良くなれない感じの人間。
そんな自分を引っ張り上げて、新しい世界に導いてくれた、友だち。
本当に、感謝している。

私は過去に生きている、のかもしれないなあ。。。
じかんの流れに、ついていけない。

年齢的に、結婚する友人が多いのは、当然の流れだと思うのだけれど、
友人が結婚する度に、何とも言えない寂しさも感じてしまう自分。苦笑。
どんだけ子どもなんだよ。笑。
パートナーに嫉妬したってしょうがないのにな。笑

今日もらった温かい気持ち、
純粋な、本当に純粋な心を糧にして、また頑張っていこう、と思う。

集中力と、世界の見方。(ぼそぼそ)

多分、
心穏やかに生きたい、と思っている。
そして、多くの人が同じように、思うのでないかと、推測する。

気分が高揚したり、逆に深く落ち込んだり、変化が激しく、また感動することも、多いにあるけれど、
それは気分というものが、自然のダイナミズムに影響されている結果であるということも(私の場合は)大きい、と思う。
それはまた、自分が(自覚としての)女性であることとも関係しているかもしれない。
多くの人が感じているように、生理現象として、気分と身体の繋がりが強いということが、実感を伴う確信としてある。(もちろん、こういったことの程度は、人によってまちまちであると思う。)

様々の要因が、複雑に絡み合う世界で、
因果関係を特定することなんて、本当の意味で出来るのであろうか。
こういった疑念は、極言すれば、持ち始めたらいくらでも持てるものだと思う。
そして、物事は、正の方向=ポジティヴに見ようとしても、負の方向=ネガティヴに見ようとしても、
結局、きりがない。

『夜と霧』の作者として著名な、ナチ政権期の強制収容所の生存者である、フランクル氏が、その壮絶な経験から、導きだしたことは、
「見方」や「振る舞い」を作り出す自由は、最後まで、ひとりひとりの中にある、ということではないか。

最近、思考が現実を作るということについての本を少し読んだ。
現実とは、「認識」であり、それは言い換えれば「見方」なのだということ。

こんな風に、文章を書いてみたり、或いは、写真を撮ってみたり、その他、様々な表現(記録)をある一定の時間や頻度で行ってみると、分かることだと思うけれど、
そこには本人の自覚の有無に関わらず、何らかの個性とも、癖とも言えるような特徴が表れてくると思う。
それこそが、己の持つ世界の「見方」「感じ方」であり、そこには歪みもある、と思う。
それを客観的に知ることが出来たら、自分の「見方」「感じ方」は、
集中力を鍛えていくことで、反対に、コントロールできるようになるのかもしれない。
既に、無意識のうちに、ひとは、世界を「選別」して見ている。
しかし、より集中して、見てみたい世界を見る、ということが、可能であるのかもしれない、と、
その可能性について、試行錯誤してみたいと思うようになった。

集中力を、鍛えよう。
それは心穏やかに生きることにも繋がると思う。

ということで、
こんな風にこれからもときどき、ほそぼそとぼそぼそしていこうと思います。
(それが言いたかったんかい。)