こんにちは。zenです。

 

打ちのめされております。

最近の神寄木賀集ゆかさんのブログがボディブローのように効いてきておりまして。。

 

 

体験者は「わたし」という自我意識の観点を
一つだけ稼働させている世界です。
ですので、現実は「自我意識の流動」に
沿って体験する世界観になります。
「わたしがどう思うか」「わたしがどう感じるか」
「わたしがどう判断するか」全てが
「わたし」を中心に展開されていきます。

 

「なぜかわからないけれど、こうなる」ドラマを
多用する自我は、現実がこうなる事も、
わたしが今こうなっているのも、全て、
「わたしのせいではない」=「被害者意識」の
型式が創造構造の基盤となっています。

「本当にわからないから、わからないんだ」
と主張するのは「体験者100」の観点です。
その位置から意識を動かさないならば、
生涯「体験者」に在るしか手はありません。

 

被害者の立ち位置に居続けるのは、
目の前の現実は「わたしに見合わない」
=「気に食わない展開」ばかり
=「思い通りにならない」
=「もっと素晴らしい現実が到来して当然」
と、認識しているからです。

 

現実のリアルな「現在地は 10 」なのに、

「現在地 100 」という最高位に着くため、

そこに「一切道が繋がってこない」状態です。

大地に根を張った位置に世界があるのに、

誰からも見えない雲の上の幻想玉座に座って

「ちょっと下々よ、ここに道を繋げなさいよ」

「わたしがここにいるの見えないの?」と、一人で

傲慢芝居をやっている状態が「囚われている」

「嵌っている」と称される世界観です。

 

「覚醒」は意識を軸とした「基盤システム」に

 

関わる創造ですから、3次元仕様の

 

「情動的なルート」は通用しないのです。

「こう思われたい」「こう言われたい」等々、

「体験したい物語の主人公」であろうとすると

「思い通り」を追うばかりで、上手くいかない。

覚醒しなかったとて、その観点のフォーカスは

執着の振動が重く、まず幻想すら具現化しません。

結局、「執着」に嵌って動けなくなった時点で

「システムエラー」=「ゲームオーバー」です。

 

「自我世界」というのは「自分を最高位」に
置いている大変に「傲慢な」世界観です。
そして、それを「当然」と思い込んでいます。
「わたしが最高位で当然」の振動は
ともかく粘り気が強く重苦しい波動です。

なぜ粘着的で重苦しいかというと、
現実は「自分の傲慢な在り方」がそのまま
「鏡」となって巡り還ってきますから、
「理不尽」に感じる事や「強引・全否定・
我儘・見下し・攻撃」等々、自分が常に
外へ向かって放っている思考の波動を全部、
自らで具現化体験することになるからです。

自らで放つ瘴気を人生において被り続ける。

わたしの「ほんとうの現在地」を見せられる度、
「最高位」の自我が出張ってきては
「わたしがこんな目に合うのはおかしい」
「わたしには最上級の現実が到来して当然」
と抵抗し、腐敗して粘り気を出すまで
重苦しさを募らせ、気に食わない現実を
「否定」して「逃げ」ては、幻想の「最高位」の
座から一歩たりとも動こうとしない。

自我世界は『裸の王様』のような世界です。

 

 

 

生まれてこの方 ぅん十年、自分はずっと『裸の王様』だった…ということに気が付き、

恥ずかしさを通り越して、消滅したい気分です。。

 

ただ、「消滅したい」というのは決してネガティブな意味ではなく、

どちらかと言えば「生まれ変わりたい」という意です。

破壊と創造。

 

 

僕は20歳頃まで、ずっと「外軸」で生きていました。

いわゆる「常識」に縛られ、世間一般的に言われている「~すべき」「~ねばならない」ということを疑うことなく遂行していました。

 

だけど、20歳を過ぎた頃に「人生」について1年程かけて深く問うたことがあって、

それで「~ねばならない」ことなんて一切なかったんだ!それは自分の「思い込み」に過ぎなかったんだ!ということに気付いた瞬間があって、

その時の衝撃が体感的にも凄まじく、ほんとに世界がひっくり返るような衝撃だったので、「これが悟りか」と思ったのが正直なところです。

 

「悟った」と思ったわけですから、それからはある意味「無敵状態」でして、「自分のやりたいことしかしない」と決め、大学院まで通ったにも関わらず、就職をせずに放浪の旅に出たのです。「自由」こそが人生だと。「ねばならないこと」に縛られる人生など「人生」ではない、と。

 

そして、その生き方はそれはそれで「幸せ」であったことは間違いないのです。「嫌なこと」からは距離を置き、「好きなこと」しかしてこなかったので。

 

 

 

だけど…、です。

 

「ねばならないことに縛られない」と言いつつ、その生き様そのものが「ねばならないこと」になっていなかったか。

 

「自由でなければならない」

「好きなことをして生きなければならない」

「苦しんではならない」

「自分軸で生きなければならない」

と…。

 

そしてその考え方は、

「不自由な生き方をしている人」

「やりたくないことをして生きている人」

「苦しんでいる人」

「外軸の人」

などなどを『下』に見ることに繋がっていたのです。

 

なんと傲慢で厚かましいことでしょう!

 

僕はつい最近まで本当に、自分の「傲慢さ」「強欲さ」「厚かましさ」…、すなわち『裸の王様ぶり』に全く気が付いていなかったのです。一体何様なのか…。自分を常に「最高位」に置き、「下々の民」を見下していたのです。

 

本当に、もう死にたいくらい恥ずかしいです。

 

本氣で生まれ変わりたい。

 

 

 

生まれ変わるためにこれからどうするか。

 

「意識基盤」を変えなきゃいけないと思っています。

 

これまでは「自分のやりたいことしかしない」という意識で生きてきました。

つまり、「自分」「自我」「わたし」中心の意識でした。

 

だけど、宇宙は「一つ」です。

みんなで「一つ」です。

人間という「一つ」の身体が、数兆個の細胞から成り立っているように、

わたしたちひとり一人は宇宙の「細胞」に過ぎないのです。

だけど、たかが「細胞」、されど「細胞」。

一つ一つの「細胞」はちっぽけな存在かもしれませんが、

一つでも異常をきたせば身体全体ーすなわち「宇宙全体」に影響を及ぼすのです。

 

 

僕は「歯車」という言葉が大嫌いでした。

「自分」という存在をないがしろにし、社会の「歯車」として生涯を過ごす…というような生き様に対し、強烈な嫌悪感を抱いておりました。

 

だけどそれは、小さな小さな「社会」や「組織」という単位で観たときのお話。

 

「宇宙」という視点で「歯車」という有様を俯瞰してみたとき、それは決して嫌な響きではない。

むしろ「歓喜」に通ずる。

なぜなら「宇宙」という壮大なる存在の「一部」としてお役に立てるのだから。

 

「意識基盤を変える」というのはそういうことです。

 

「自分が全て」だった意識から、

「宇宙の一部」という意識に変換するということ。

 

「自分のやりたいことだけやる意識」から、

「宇宙のお役に立つことをする意識」に変換するということ。

 

そのためには、周りをよく「観察」し、その中での自分の「役割」を認識していく必要があります。

「分をわきまえる」必要があるということです。

 

傲慢で独りよがりだった僕にとっては、これは大きな大きな試練です。

なんせ ぅん十年も「自我最優先」で生きてきましたので。

 

 

 

「宇宙最優先」の意識で生き始めたとき、未知の「道」が拓けるような予感がしています。