化学反応に用いる試薬を、触媒量ではなく、1当量以上用いる場合、その反応を化学量論的と言い、「化学量論量の試薬を用いる」などの表現をする。化学量論的の英語はstoichiometricである。
この化学量論量という言葉の代わりに、当量という言葉が使われている例をしばしば目にする。例えば「この反応では当量の酸化剤を用いた」などの言い方である。当量という言葉はもちろん通常は「1当量」とか「2.5当量」というように、量の単位として使用されているし、実際の使用例を見ても、数字の後ろに置かれる形で頻繁に使用されている。つまり、単位としての使用がほとんどである。しかし上の例のように化学量論量という意味で当量を使っている例があり、私個人はこの使い方に違和感を抱いていた。本来異なる意味合いを持つ言葉のはずだ。それでも研究室内での会話では、化学量論量という意味で当量を使うことは頻繁にあると思う。問題は、その使い方がフォーマルな場(論文や学会発表)などでも使える正式なものなのだろうか、という点である。
この問題を解決するためにまず以下の辞典を調べてみたが、結論は得られなかった。なんと、そもそも化学量論量という項目がなかった・・・・・・
「岩波 理化学辞典 第5版」(岩波書店)
「標準 化学用語辞典 第2版」日本化学会編(丸善)
そこで、以下に挙げる教科書を網羅的に調べることにした。やはり教科書はちゃんとした用語を使っているだろう、という期待があるからだ。
「ウォーレン有機化学 第1版」東京化学同人
「スミス基礎有機化学 第3版」化学同人
「ソレル有機化学 原著第2版」東京化学同人
「ソロモンの新有機化学 第9版」廣川書店
「パートナー医薬品化学 改訂第2版」南江堂
「パイン有機化学 第5版」廣川書店
「ブルース有機化学 第7版」化学同人
「ボルハルト・ショアー現代有機化学 第6版」化学同人
「マクマリー有機化学-生体反応へのアプローチー 第1版」東京化学同人
まず化学量論量という言葉がどれだけ使われているかを調べた。使用回数の結果は以下の通りとなった。
ウォーレン 6回
スミス 0回
ソレル 4回
ソロモン 2回
パートナー 1回
パイン 0回
ブルース 0回
ボルハルト・ショアー 4回
マクマリー 0回
合計17回使われている。
これらは、酸化剤や遷移金属、求核剤など多岐にわたる物質の量の表現に使われている。
一方、当量という言葉は非常に多く使われていた。そのうちのいくつかは「相当量」とか「適当量」のような単語の一部なので、これらを除外すると、以下の回数となる。
ウォーレン 72回
スミス 183回
ソレル 2回
ソロモン 13回
パートナー 11回
パイン 11回
ブルース 39回
ボルハルト・ショアー 84回
マクマリー 1回
計416回
教科書によって使用回数に大きな差があるが、ほとんどは単位としての使用であり、化学量論量という意味で当量を使っている例は以下に示す7例のみであった。
「その塩基は水によってプロトン化され、当量の水酸化物イオンが生じることになる」(ウォーレン)
「したがって水酸化物イオンを当量用いる必要がある」(ウォーレン)
「塩基を触媒量用いる場合には平衡は右に傾き、塩基を当量用いる場合は左に傾く」(ウォーレン)
「このC2H5OH溶液に当量のマレイン酸を加え」(パートナー)
「酢酸エチルは当量のナトリウムエトキシドと反応して」(ボルハルト・ショアー)
「充分に強い塩基を当量用いない限り起こらない」(ボルハルト・ショアー)
「当量のギ酸を与える」(ボルハルト・ショアー)
これらの例はすべて酸塩基反応に関係していると言っていいだろう。
また、以下の例も見つかったが、これらは意味から考えると「等量」の誤植であると考えられる。
「通常二つの鏡像異性体の当量混合物として存在している」(パイン)
「鏡像異性体の当量混合物であるため光学不活性であるようなキラル化合物をラセミ形racemicといい」(パイン)
「したがってアノマーは、エナンチオマーではなくジアステレオマーであり、当量生成することはない」(ボルハルト・ショアー)
【結論】
stoichiometricな量としての用語は「化学量論量」も「当量」も両方使われていた。ただし「当量」の使用例は酸塩基反応に関するものであった。「化学量論量」は、より幅広い物質の量の表現に使われていた。
したがって、「化学量論量」と「当量」の、どちらを使用しても許されると思われるが、「当量」の使用例は酸塩基反応に限って使用した方が無難であろう。