2018全国農団労「反核・平和行動」が8月5日から6日にかけ広島市内で開催され、全国から47名が参加した。開会のあと学習会に取り組み、広島県被爆者団体協議会の切明千枝子(89)さんより被爆体験を伺った。切明さんは流れる映像の様に当時の街の様子を語り、原爆や戦争、平和に対する思いを訴えた。参加者らは切明さんの悲しく切ない体験談に真剣に聴き入った。
【切明千枝子さんの被爆体験談】
広島市内には七つの川があり、街は三角州の上にあるため農作物が沢山出来る場所ではない。干拓地で少し掘れば潮が出る。米も作れないため、綿、ハス、レンコンくらいしか栽培できなかった。そのため貧乏な街だったが、日清戦争で大本営、帝国議会が広島に移され、戦争で街は発展した。
市内の東西に練兵所があり、子どもの頃は街に兵隊があふれていた。小学校二年生のとき日中戦争が始まり、宇品から兵隊が戦場へ送り出された。毎日、宇品の岸壁へ行き、「万歳、万歳、頑張って」と見送った。兵隊様様という街だった。平和公園のある中島地区が広島で一番の歓楽街だった。カフェ、旅館、映画館、遊郭があり、夕方になると綺麗な着物を着た女性たちが銭湯に入ってから遊郭へ向かった。
広島は陸軍の軍都で、今の広島港は陸軍の港だった。宇品から広島港へは国鉄が走っていた。陸軍三支廠(糧秣支廠、被服支廠、兵器支廠)もあった。夏になるとアスファルトの道路が戦車のキャタピラ跡だらけになった。軍人の位によって軍服の素材も違った。寒冷地での戦闘に耐えるための毛皮を取るために、様々な種類のウサギが沢山飼われていた。広島市民は軍需工場へ勤める人が多かった。今も4つのレンガ造りの建物が残っている。負の遺産だ。戦争というのは不景気を簡単にひっくり返せる手段だったんだなあと思った。
小学校六年生の時に太平洋戦争が始まった。昭和の初めにはテロやクーデターが沢山起きた。高等女学校四年の時に戦争が終わった。大きな怪我は免れたものの爆心地から南東およそ2キロの場所で被爆した。原爆が落ちても誰も助けてくれなかった。援護法が出来るまで空白の10年だった。米軍の駐留軍が来て全ての情報をシャットダウンし、メディアが取り上げることが出来なかった。
広島から逃げ出したかったが行くあてもなく、父に「帰るところなんかありゃせん。ここで生きていくしかない」と言われた。あるのは焼け跡だけだった。仕方なく焼け跡で農作業をはじめた。大きな玉ねぎや大根、キュウリ、ナス、カボチャが出来た。放射能の影響で野菜の遺伝子がおかしくなり巨大化したそうだが、知らずに食べた。食べるものに困らない農家の人が羨ましかった。適正な価格で安全な食べ物が手に入る世の中になってほしいと願った。
原爆症になるのが恐ろしく、毎日顔を洗う時に髪を引っ張ってみた。9月の終わり頃、髪がバサッと抜けた。生きる気力も失くしていたが、子どもを失った親にジロッと睨まれ、その目が怖かった。「うちの子は死んだのに、何であんたは生きているの」と言っているようだった。当時は何で睨まれるのか分からず辛かった。その四年後に慰霊祭に出れなくなった。原爆症にはドクダミ、鯉の生血が良いと母が用意してくれた。着物と鯉を交換し、母が鯉の頭を切ったが血は出なかった。
8月6日のことだけは忘れてはいけないと思い被爆証言をやっている。忘れようと思うたびに心に留まる。メンタルが原因で自殺した友人もいる。生きてみようと思ったのは終戦の翌年の春だった。焼け残ったホールでヴァイオリンのリサイタルがあり、奏者の金色に光ったハイヒールと銀色のドレスがとても綺麗だった。世の中にこんな素晴らしい音楽があるのかと知り、もう少し生きても良いと思った。まさに命の恩人だ。希望の様なものが生まれ、音楽の力は馬鹿にならないと思った。
その後、平和記念公園へ移動しピース・ウォークに取り組んだ。猛暑の中、約一時間かけ連合広島のボランティアスタッフから慰霊碑やモニュメントの説明を受けた。夕方には広島産業会館に移動し「被爆73年連合2018平和ヒロシマ集会」に参加した。
翌朝は、各自で広島市平和記念式典に参加したあと「広島県農業団体被爆者慰霊祭」に取り組んだ。最初に全員で黙祷を捧げ、献花、平和の折り鶴献納を行った。平和の誓いは広島・三次の藤川裕美さんより読み上げられた。最後に本部の大谷書記長が二日間のまとめを行い反核・平和行動を閉じた。















