8月5日から6日にかけ全国農団労主催の2019反核・平和行動が広島市内で開催された。参加者ら約30人は5日午後、平和記念公園に集合。焼けつくような暑さの中、連合構成組織の仲間が平和記念公園内にある慰霊碑のガイドを務める「ピース・ウォーク」に参加し、それぞれの慰霊碑について約2時間ほど説明を受けた。
その後、白島北町にある上野学園ホールに移動。「被爆74年連合2019平和ヒロシマ集会」、「2020年核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議に向けた平和シンポジウム」に参加し、主催者あいさつや来賓あいさつ、高校生平和大使の活動報告やメッセージなどを受けた。

翌日は、午前8時より平和記念公園で開催される「広島市平和記念式典」に各自で出席したあと、平和記念公園の川向にある広島県農協会物故者慰霊碑前に集合し、「広島県農業者団体被爆者慰霊祭」を執り行った。小降りだった雨が激しさを増してきたが、死没した被爆者の方々の冥福を祈り黙祷と献花を捧げ、平和の誓いを読み上げた。慰霊祭終了後、学習会場に移動し平和学習会に取り組んだ。
学習会1では、被爆体験談として8歳の時に被爆された波田スエ子さんからお話を伺った。

5人姉妹の末っ子で「スエ子」と名付けられ大事に育てられた。小学校三年生になった1945年4月、160人の生徒が分散されて田舎に学童疎開。親と離れるのは辛かったが汽車に押し込まれ、広島県北部のお寺へ着いたのは夕方だった。食料は乏しく、食べられる草を探しては食べていた。夜になると「広島に帰りたい」と布団の中で泣いた。8月5日の朝、家に帰ることになり4ヶ月ぶりに家族に会った。日棚(ベランダ)で姉妹4人がゴロゴロと転がって遊んだり、童謡の「もみじ」を唄った。その日の夜は星に手が届くように綺麗だった。翌朝目が覚めたら母は建物疎開、父は仕事に出掛けていた。16歳の姉が大豆を炒ってくれていた。姉同士の口喧嘩が始まった。その時が8時15分だった。閃光の中で一寸先が見えなかった。いろんな光が見えた。何とも言えない音がした。下の方から突き上げてくる衝撃だった。その後の記憶はない。爆心地から800メートルのところに自宅があった。姉の声で気が付いた。誰かが助けに来てくれると思っていた。首に傷を負い白いワンピースが血だらけになっていたが痛みはなかった。怖さで痛みを感じなかった。そのうち、火が回ってきて「早く死にたい」と祈ったが、何とか這い出した。姉を助け出そうとしたが地形が変わってどこが自分の家か分からなかった。川に向かって逃げた。裸足だったが幸いに足の裏は無傷だった。土手にはずらっと人がいて唸っていた。人間が筏のように浮いていた。火の玉があちこちに燃えていた。原子雲が消えたあとは暑かった。8月14日の夕方、誰かが自分を探していると言われて、姉かと思い会いに行った。そこに居たのは宇品に住む親類だった。引き取られ育てられたが、優しかった夫婦も子供が生れてからは態度が変わった。冷遇され、気を使ってご飯もお腹一杯食べることが出来なかった。そして、色んな人が見物に来た。「ピカドン」とか酷いことを言われた。身体の傷は治ったが、心の傷は忘れない。15歳の時に結婚し、17歳で子どもが生まれた。どうか皆さんも家族を大事にしてほしい。今日一日を平凡に過ごせることにありがたさを感じる。今日、こうして皆さんに会えたことに感謝したい。

学習会2では、全国農団労2019運動方針「すべての核兵器を廃絶し、平和な世界をめざす」の項について、全国農団労中本副委員長(広島県農協労連委員長)より提起が行われた。中本副委員長は情勢および方針・要求を説明した上で、「被爆体験者の平均年齢は82歳を迎えている。若い世代に戦争の悲惨さを語り継いでいくことが重要だ」とまとめ閉会した。二日間の参加者数は延べ50人だった。
【8月4日に広島県立総合体育館で行われた「被爆74周年原水爆禁止世界大会・広島大会 開会総会」の模様】











