「抽象的思弁」とは、具体的にこうであると言えないもので、それだけ"抽象的"であることの表れであるのでしょう。
杳ととして知れずとも、何かをつかもうとして思考を張り巡らすことそれ自体の必要性は強く感じます。
このあたりの、自分の好きな由縁とか範囲とかを上手に伝えられたら良いのかもしれません。
そのためにも、あの手この手で思い浮かぶことの数々を書きつけていかないとなと、それは自分の日々やるべきことだなと思うものです。
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最近は、いちいち感情に起伏が現れないように、「思いを持たない」ことをある一面では意識しています。
このことの真髄について語るには、結構な手間と労力をかけたいところですが、少しずつでも表していけたら良いなと思います。
簡単に言えば、何かしら感じるにしても、目の前にある現象と自分の持つ感情は直接のつながりはないので、いたずらに心をかき乱す必要はなく、切り離して考えれば良いということになります。
単にそれだけのことなので、どう思うとも、それでどうするということもなく、時間を淡々と過ごしていくばかりです。
柳が風を受けてしなるのが、柔軟さの例えとして多く挙げられますが、この場合では、風を受けてどうするようなことでなく、風が強く吹こうが吹かまいが、単にそこにすっと立っているようなことになるかもしれません。
明鏡止水、何にも惑わされることなく、気持ちが透き通ったままでいられたら良いなと思います。
そんな「思いを持たない」一方で、考える時にはより深くとか、感受性を豊かにするとか、他の追随を許さないほどの"深さ"を求めることが良いなと思います。
これは、いつも行なっていることで多角的な視点で、多角的にとらえていくというだけのことで、引き続きやるだけのことです。
ただ、「思いを持たない」ばかりでは無機質になり、複雑怪奇に考えを深めるのでは頭でっかちになりそうなので、そういう振り幅を大きく取って極端な頭の使い方をしているのだと、静かに自覚しておくのが大切だなと思います。
それでも、どうしてもその方針を貫けないようなことや、相容れないようなことがあるかもしれませんが、そういう時には「半分、ムカつく」みたいに対処して、全面的に受け止めないのが良いのかもしれません。
全部でやってしまうと、巡り巡って損を被るのは結局自分自身なので、"半分そうする"くらいがちょうど良いのでしょう。
表面的にはのらりくらりして、つかみどころがないくらいで進めていきましょう。
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日々、少なからず思うことのひとつひとつが積み重なっていくので、適度に消化しながらやりくりしていく、そのためにもいつも何かを書く習慣を持っておくのが好ましいなと思います。
本を読む、文章を書く、それは楽しいからやっているのですが、時に自分自身を鼓舞して、適度な負荷をかけていくことも大切です。
少しでもやっていくことで、考えは深まり、文章は上手になっていくので、無理の生じない範囲では大いにやっていきたいところです。
これがまた、次なる展開とか、新たな視界につながっていくでしょうから、倦まず弛まず続けていくことにしていきましょう☆