電話の:保存用 | 重金属備忘録

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日々のいろんなことを忘れないように!片言隻句の積み重ね&大いなる独り言☆

【TELEPHONE】

 

おはようございます、ソバジマです☆

 

時々、街中で歩きながら、あるいは、立ち止まりながら電話(ケータイ、スマホ)を耳にあてないで通話している人を見ると、

 

実際はイヤホン(今はずいぶんと高性能のようです)を耳に、聞いて&話してと通話しているわけですが、

 

それが大きめの声だったり、笑い声だったりすると、パッと見には独り言を言っているのかな?なんて思ってしまいます(^-^;

 

髪の長い人ではほとんど隠れてしまうこともあって、思わず声のする方を向いてしまうのですが、次の瞬間には"おっと、これは視線を合わせてはいけないヤツだ"と思って、どうにか視線の合うのを回避します。

 

しかし、そういう時に限って、不思議と視線がバッチリ合ってしまうもので、内心の動揺を悟られまいと、こちらはせいぜい平静を保つのに精一杯で、かえって顔が強ばってしまうものです。

 

そして、背中にはにじむ汗…。

 

最近では、ケータイ、スマホの電話を1台のみならず、2台、3台と持つ(携帯する)人が多くなってきています。

 

「携帯電話」の名前の通り、電話の通話機能が一応メインにはなっていますが、今では電話・メールと肩を並ぶほどにLINEが定着し、メッセージを送るべく操作している時間も後者の方がより多く増えている傾向にあるようにも思います。

 

それ以外にも、電子書籍で本を読んだり、オンラインかそうでないかは定かではない各種ゲームに興じたり、手の中に収まる端末ひとつでできることの多さに驚愕を覚えるほどです。

 

自分自身もついつい操作している時間が多くなっているのを自覚するものですが、そうまでしてやるべきものなのかなと、中空を眺めながらふと冷静に思えば、そっと逡巡する場合もないわけではありません。

 

それはさておいて、話すにしても、文字を打つにしても、どの場合でもそれは何かしら言葉、メッセージを介在していることが多いわけで、これは突き詰めればどういうことになるのかとなれば、

 

それを届ける相手がいるとか、また反応が返ってくるとか、そうしたやり取り自体を求めている人が、案外多いのかとなるのかもしれません。

 

さらには、ますます増えているように思う、歩きながらであっても熱心に操作をしている人を見ると、

 

頼りにするのと依存するのでは、心的状態にはだいぶ乖離があるようにも思いますし、いくつかの理由から、ぜひともそのような行為は控えてもらいたいとも思うものですが、

 

それだけ手放せないだけの利便性と必要性と、そしてやり取りを求める気持ち、いわゆるひとつの欲求があるからなのかもしれません。

 

これほどまでに電話が発達していなくても、本来的には、面と向かえば身ぶり手ぶりをも交えながら、そのまま目の前の相手とやり取りをすれば良いものですが、そうはなっていない、

 

目の前にいるのにも関わらず、携帯電話を通じてメッセージを送り合うという、本末転倒なる状況すら起こっていることもあるようです。

 

口に出した言葉は、意志や意図を乗せながら相手に届き、その相手はそれらを汲み取りながら、また返すようにして元の相手に届ける、

 

その繰り返しや頻繁な応酬が、会話として次第に生成し、やがて深いところで相互に疎通するものと考えられます。

 

しかし、これは、時間的なとらえ方をすれば、何か口にした途端後ろに遠ざかっていくために、やや前のめり気味にもなって、矢継ぎ早に接ぎ穂を足していく必要があって、

 

その意味においては、非常にはかない、この手で感触を確かめにくい営みのように思うかもしれません。

 

声に思いを乗せるからどのような気持ちなのかも、口に出す言葉そのものと合わせて表情や口調などとともに伝わるものですが、

 

これが先述したような理由から、声に出す以上に、通話の履歴、メールやLINEのやり取りとその履歴を、まさに痕跡としたい気持ちが優先している、それが現在の状況なのかもしれません。

 

たとえ、実際には誰かとやり取りをしなくても、電波的にはつながっている携帯電話(スマホ、ケータイ)という筐体を手にしていることが、

 

誰かとつながっている、あるいはいつでもつながることができるという、その実は深層心理の反映となっているようにも思えてくるのです。

 

ただ、逆説的に言えば、誰かとの関わりややり取りはあくまで一過性のものだし、その時その場所にいる自分で向き合っていくだけものですが、

 

それを先に延ばすようにしたり、過去のものを引きずるようでは、今の今に生きていないということにもなって、それはまた"執着"にもなっていくようにも思えてしまいます。

 

また、より難解にとらえていくのなら、そして、どれくらいの蓋然性があるか、検討の余地は多くありますが、自らの持つ端末が自我の反映とも考えられそうで、

 

どのようなアプリや機能を用いているのか、インターネットやSNSの類ではどのような閲覧、検索を行っているのかなど、

 

その人の見知るところの大半が、そちらに置き換わっていくうちに、場合によってはこちら側に目に見える形で表れてくるとも考えられます。

 

そういった、自分の頭の中や気持ちの中にあるものを知ってほしいといったことも、おそらく潜在的にあると考えれば、

 

それをひとつの願い(のようなもの)として託し込んでいるとみなすことも、決して突飛なわけでもなく十分に可能なのかなという気がします。

 

そして、それがある意味ではまったく架空ではないにせよ、多分に仮想(ヴァーチャル)のことでもあるので、現実的にどうであるかに優先して、それだけに手の中の画面に没頭してしまうのかもしれません。

 

果たして、どんな手段や道具にしても、何を持っているかより、それをどのように活用していくのかが重要であって、

 

今回の携帯電話に限った話でなく、より有効に使いこなすことで、より多くの人やより広い世界に触れる(アクセスする)ことができるのだろうと思います。

 

個人的には、今回のような抽象的思弁を好む傾向が結構強くあるので、今年はより同じような思考の傾向を持つ方々と、ぜひとも辱知の栄を賜りたいなと思っています。

 

それに限らずに、機会があれば、あなたの声や思いを、携帯電話を通してでも、直接にでも良いので、そっと伝えてもらえたら嬉しいなと思います☆