somebody  ①ある人、誰か ②何某と言われる(偉い)人、大物、相当な人
 
子どものころ、具体的な将来の夢というのはあったのだろうか?
覚えている、一番小さかった頃のことは
小学4、5年生ごろ、石森章太郎の影響で
マンガ家になりたいと思ったことだろう
石森(今は「石ノ森」と呼ばれている)の
「マンガ家入門」を手に入れて
絵を描く練習をしたが
マンガ(ストーリー)を描くことはできなかった
いつの間にか、そんな夢はすっかり忘れてしまった
 
次に抱いた夢は
中学生から高校生にかけての
「音楽家(ミュージシャン)」だ
これは、かなり真剣に考えていた
ビートルズや、フォークソングに魅せられて
自分でも歌を作って、何度かコンテストに応募したこともある
ギターは一生懸命練習していたが
自分に特別な才能はないことは
初めからわかっていた
歌が下手なのは、致命的だった
高校のころ、勉強はまるでだめで
進学校の生徒としては、お先真っ暗、という感じだった
高校2年の時、
心配してくれた古文の先生が
お前は一体何がやりたいんだ?と聞いてくれた時
音楽をやりたい、芸大に入りたいと答えてしまった
それは、まるっきり嘘ではなかったが
その先生に「えっ? 音楽? 誰か(特別な先生)についているのか?」
と真剣に聞かれた時
ああ、やっぱり夢のまた夢
所詮、無理な話なんだな、と恥ずかしい思いをした
 
倫理社会の影響で、鎌倉仏教に強く惹かれた時は
それまでわりと長く伸ばしていた髪をバッサリ切って
坊主頭にしたこともあった
将来、浄土真宗か曹洞宗の僧侶になることも考えた
 
その後、教会に通うようになり洗礼も受けた
将来、英語を使って国際的にボランティア活動などができたらいいと
漠然と考えていた
もしかしたら、牧師になるというのもいいかなと思った
英語の専門学校は、勉強がとても楽しく
もっと「学問」をやりたいと思うようになった
そして、大学を受け、キリスト教や哲学の勉強をしようと思った
英語と論文という、特別な入試を受け
運よく合格することができた
しかし、実際にキリスト教学や神学を学んではいたが
教会から遠ざかることになってしまい
結局、何をやりたいのかわからない状態だった
 
高校を卒業してから、
近所の子に英語を教えたりする家庭教師のアルバイトをしていた
そのころの自分は、自分が習ってきた先生たちよりは
うまく教えられるという漠然とした自信があった
実際教えていた中学生がテストでいい点が取れるようになって
とても面白く思っていた
大学3年になったころ、そろそろ真剣に考えないとなあと思っていた時
そうか、自分は教師になりたいんだ、と気が付いた
中学校の英語の先生になろうと
 
しかし、そのころ所属していた文学部キリスト教学科では
英語の教員免許は取れないということが分かった
それで、親に話をして、翌年英米文学科への転科をすることにした
試験は英語と面接だったので
特に準備もせずに受験した
面接で、試験官の教授たちから
リスニングがとても良いが、海外の経験があるのかと聞かれた
大学に入る前に、1年間英語の専門学校で英語漬けだったと答えた
そして、どうして英米文学科への転科を考えているのかと尋ねられ
二つ理由がある
一つは、この年になって遅いとは思うが、将来中学校の英語の先生になりたい
もう一つは、アメリカの超絶主義者・エマソンらの研究がしたい
そう答えた
教授たちの顔が、輝いたのを見て、合格したことを確信した
 
そうして無事、4年目に3年編入で英米文学科に移り
それから、教職メインの学生生活を送り
塾での講師をはじめ、どっぷりとつかっていった
そこから3年かかって教職の免許を取得し
立教中学校と東京都の採用試験を受け
東京都に合格が決まった
足立区の中学校に赴任が決まって、そこから私の教員の生活が始まった
 
教員になってからは、
もう何かになりたいとか、何かを成し遂げたいと思うようなことはなくなってしまった
それでも勧められるままに
主任を経験したり、海外派遣の引率を経験したりするうちに
海外の日本人学校に行ってみたいと思うようになったりはした
実際、希望して、受験をして、ドイツの学校への派遣が叶った
 
ドイツから帰ってきたら、知らぬ間に
「ベテラン教師」の側に立たされていた
自分では、まったくそんな意識はなかったが
周りは、私をそう見ていた
気が付くと、確かに自分は、ほかの教員よりも経験が豊かで
年齢も上になってきていた
生活指導主任、学年主任
研究主任そして、教務主任を任された
校長に勧められるままに
主幹教諭になり、そして
管理職試験を受けることになった
自分がやらなければならない
自分の番になったのだ、と思ったからだ

そして、異校種の副校長になり別の世界を知った
そこまで行ったらあとは校長になるしかなかった
大人になってから、初めて本気で昇進を考えた
校長試験は、4倍くらいの倍率か?
1次の論文で受験者の半分が合格し
2次の面接で、さらに半分に絞られる
その試験を3回受験した
論文は毎回自信があったが
面接で不合格を2回経験した 
この経験は、就活で苦しむ娘たちの気持ちを
理解するのに役に立った

副校長を7年経験したあと
校長になって、現在の学校に着任した
自分の思いで学校経営ができる特権を手にしたのだ
そうして、この6年間
自分の学校のためにすべてを注いできた

今、退職が目の前に差し迫ってきて
この職を去った後のことを考えている
たった一度きりの人生
やりたいことは、可能な限り挑戦してみるのがいい
音楽は、その後大変よい趣味として
人生を彩るものとなっている
たまに仕事にも役に立っている
英語はおそらく、これまでで一番高いところまで来ているが
ほとんど実践に役立つことはない
もう、私の英語力より生成AIの方が遥かに優れている
これまでの経験をいかして
退職後、世の中に貢献できることはあるか模索している

ひとまず、退職したら
大学院ででも勉強したいと思っている
しかし、何を勉強したいのだろう?
はじめは外国の大学で英語の教授法でも学びたいと思っていた
昨年は、心理学の勉強をしたいと思った
心理学の勉強は、本を読んだり
学会に所属したりしてみたら
自分には難しいことがわかってしまった 
そして、今年になって、
経営について学びたいと思うようになった
自分の6年間の学校経営を振り返り
経験と勘だけに頼っていたことを痛感している
恐らく、他の校長たちも多かれ少なかれ
似たようなものだろう
学校の教員に、経営などという考え方は馴染まないからだ

何か、もっといいやり方があるのではないか?
それを学びたいと思った
本当は、実践をしているときに、
いや、それより前に、学んでおくべきことだった
だから、その事に気づいた自分が
今、学んで、後進の役に立つことはできないだろうか?

だが、よくよく考えてみると
20の頃から、
自分は「何者か」になろうという思いは捨ててしまっていたのだ
何者かにならなくても
幸せに生きることができるということを知ったからだ

40代の頃だったか
ベテランと呼ばれるようになって
自分のことを客観的に見つめたことがある
そして、自分は
これまでの人生で、常に
平均よりはちょっと上にいると思った
教員の中でも、全体の中で
平均よりは上、ちょっといい先生ではあると思った
しかし、それは、決して
トップではないという認識だった

己を知る
それは、高校生の時
ソクラテスを知ったときからずっと考えていることだ
私は、少なくともここまで
とても幸せな人生を歩んできたし
これから、何があっても、
幸せであるだろうとは思っている

しかし、それは、何者かになることで得られるものではない
自分自身の存在そのものの認識によってだ

100マス計算で有名な陰山英雄氏は
自分の教育実践で有名になることを常に考えていたという
写真を撮られるときの角度まで
計算していたという
私とは違う人なんだなあと思った
と、同時に、そういう人でなければ
あのように有名な人にはならないだろうということも
つくづく思っていた

考えていることや、やっていることは
そんなに大きな違いはなくとも
人から注目されるかどうかは
そのやり方によって結果は多いに異なる

私は、今やっていることに全力を傾けているが
それは、決して名誉のためではなく
ただ、自分の心の思うままに
正しいと思うことを実行しているにすぎない

自分に成し遂げられることもそこそこであるだろうし、
そんなに大したことは決してできはしないだろう

これから先の人生も
自分の周りのごく少数の人たちに
影響の輪を及ぼすことができるなら
それは素晴らしいことだと思う

SOMEBODYにはなれないし
ならなくていいと思っている

そこが私の限界であることもわかっているが
その限界の中で、できる限りのことをできたら
私の人生も、捨てたものではないだろう