沖縄による戰後日本への怒りは當然 | 日本國人

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令和元年・紀元2679年10月1日開始。

 大東亞太平洋戰爭において、沖縄縣では、鬼畜米英の侵略により、大規模な本島本土決戰が行われ、多數の方が亡くなられた。戰死された陸海軍将兵とともに、軍屬や、一般縣民の方々も、數多く鬼畜米英軍により虐殺されたのもまた事實だ。

 その沖縄戰について、日本軍が沖縄縣民を見捨てた、などと非難する向きもある。しかし、それは大間違いだ。特に、世界最強の大日本帝國陸軍は、開戰以來、沖縄戰も含め、一貫して勇戰を尽くしたし、アメリカ海軍相手に負け續けていた海軍ですらも、沖縄戰では、戰艦大和を向かわせ、特攻機も大擧出撃、大戰果を擧げたのである。

 沖縄縣民が犠牲になったのは事實だとしても、それは軍が沖縄縣民を見捨てたからではない。陸海軍とも、司令部は自決し、将兵も多くが戰死もしくは自決した。軍が住民を連れて行かなかったのは、當然である。そんなことをすれば、司令部すら自決せねばならぬような戰況にて、巻き添えで全滅してしまうではないか。現に、一般縣民の死亡率より軍人の死亡率のほうが高いはずである。

 では、當時の日本に、沖縄縣を見捨てた者共が居なかったのかと言えば、それは居ると言わざるをえない。終戰當時の日本政府である。當時の日本政府は、卑怯卑劣にも、せっかく沖縄縣が、本土決戰の先驅けとして、本島決戰を戰い、鬼畜米英軍の虐殺行為もあり多大な犠牲をはらわれていたのに、ポツダム宣言を受け入れ、あろうことか、武装解除してしまったのである。そして、沖縄縣を、住民虐殺の張本人であるアメリカに、譲り渡してしまった。であるから、沖縄縣民の、戰後日本およびアメリカに對する怨みは、當然のことなのである。

 あの時、日本は、沖縄縣と同様、内地にても本土決戰を戰い、斷じて降伏などすべきではなかったのだ。そうしてこそ、大日本帝國のために沖縄戰で亡くなった方々も浮かばれるものであるし、降伏しなければ、アメリカが沖縄縣を占領統治するのも困難だったろう。陸海軍司令部は自決しても、本島北部では終戰時まで戰いが續いていたし、宮古八重山諸島には守備隊も健在だったのだ。

 であるから、戰後日本やアメリカずれを肯定しておる者共に、今の沖縄が反日反米であることを非難する資格は無い。保守を名乗る者で、沖縄の反日反米を非難する者も散見されるが、もしその者が、戰後日本や在日米軍を肯定してのものならば、恥を知るがよろしかろう。

 沖縄の反日反米を非難する前に、まず、降伏して武装解除してしまった昭和二〇年當時の日本政府と住民虐殺を行った鬼畜米英をこそ、非難し、糾彈すべきである。

 そして、連合国がつくった、日本国憲法その他のいわゆる戰後體制をひっくり返し、核武装を當然に含んだ自主國防體制を整えて、たとえ全面核戰爭となり日本人の人口が何分の一かになる事態になろうとも、斷じて沖縄縣を外国に譲り渡さぬと誓うこと。それが、沖縄の反日反米を非難する前にとるべき、最低限の姿勢というものであろう。

紀元二六八二年 令和四年 九月二九日