ふと、気がつく...
「あれ? もうこんな時間か?」
「え? もうこんな時間なの?」
「いいアイデアが浮かんだのに...」、「会って話がしたいと思ったのに...」、「たまには一杯飲みたいと思ったのに...」。
「そうか、俺はそんな仕事はもうやっていないんだ...」「あいつはもういないんだ...」「あの店は、もうとっくに無くなってたっけ...」。
...ふとした時に、時間の感覚が混乱する事がある。
もちろん、すぐ「ああ、そうだ...あれから何十年も経ったんだ」と気がついて、溜め息をつくんだけど。
鏡の中の老人が自分だとは認め難く、重く硬い体を納得し難く、イメージだけは風を切る。
ロッククライミングを「やれそうだ」なんて勘違いし、フェンシングを見て「俺の得意な動きじゃん」なんて妄想が湧き上がり、バドミントンを見ては「俺もあのくらい出来たんだ」なんて阿呆らしい幻覚を見る...そして、「若かったら可能性はあったんだろうけど」といくらか冷静な自分が苦笑しながら頭を振る。
たまに東京に出ると、昔自分がいた頃の店を探している。
新橋のビヤホール「グレートジャーマンクック」は既に無く、御徒町の居酒屋「ゆうかり」も無く、有楽町ガード下の焼き鳥屋も経営が変わり、大好きだった六本木の「突撃ラーメン」の「冷やし突撃」もとうの昔に無くなった。
他にもいくつもあった「行きつけ」の店は一件も無くなった。
飲み相手がいた色々な出版社も引っ越したり潰れたり...その前に元気だった編集の友人達もとっくの昔に定年になって...今はもうすっかり誰もいなくなった。
もうこんな時間なのか...
もうそんな歳なのか...
もっと早く終わると思っていた俺の人生は、思いもかけず続いている。
「俺が死んだら女房子供の相談相手になってくれ」と頼んでいた仲間は俺より早く死にやがって...
さてさて...「予定通りにゃ行かないのが人生」って改めて認めなくちゃの俺の人生。
「おお、もうこんな時間か!」なんて、ちょっと驚きながら・焦りながら、酒を片手に「ケ・セラセラ」で「セ・ラビ」と...行くしかねえだろなあ(笑)。
同窓会
と言っても、学校の同窓会じゃなくて銀座でヌードクロッキーの会をやっていた人達の同窓会。
俺はその頃30代、仕事が忙しくなって来た時だったけれど、美大も何にも出ていない俺の「絵を描く」基本が独学のクロッキーで、それが自分のイラスト制作の土台を支えていると自覚していてクロッキーを描き続けようとしていた。
この会は某大手広告会社社員のT氏と芸大卒のイラストレーターS氏が中心となって、種々雑多な職業の若者達が集まって割と真剣に描いている会だった。
俺はよっぽど仕事が詰まってない限り、毎週火曜日のこの会に出ることを決めていた。
集中して描くことも楽しかったが、会が9時で終わった後にほぼ毎回銀座近くの飲み屋で一杯やることがまた楽しかった。
その上、なぜかこの会に参加してくれる女性は魅力的な人ばっかりで、職業や年齢が違うのにワイワイ飲んで語った時間は、その後時間が経つほどに懐かしく思えて来る「充実したひと時」だった。(本当に美人が多かったよ・笑)
そんな楽しい時間も中心人物だったT氏が、会社を離れ独立した時に終わりを迎えた...当時40歳くらいだったか...
その後30数年、何年かごとに同窓会を重ねて来て、今回は病気から復活したS氏の復活祝いを兼ねた同窓会。
まだまだ当時の参加者は多かったのだが、今回都合がついたのは18人。
(いつも一番大騒ぎの中心だったSYUUZOUがいないのが寂しいが、回を重ねるごとにそういう人が増えていくのは世の定めか。)
久しぶりの銀座は、元「地元」のつもりだったのに、すっかり迷子になった俺は会に遅刻...しかし、たどり着いて飲む酒の旨いこと!
全員、近づいて見れば流石にシワが増えた顔ではあるけど...話し始めれば20代・30代の頃の顔に見えてきて...自分も若いつもりになって来て...不思議なもんだよな(笑)。
内心、後3年後とか言っている「次回」の同窓会に参加出来るのかわからない、という気持ちはみんなあるんだろう...会の終わりは気持ちが溢れて別れ難く...でも、いい時間だった。
終わってもまだ明るい9月の昼間、俺はS氏の個展会場が近いのでそこに寄って、それから二次会をするという人たちと合流するつもりだったけど...連絡が取れず(また迷子?)。
なので、帰りに一人で浅草の神谷バーに寄って一人宴会。
...以前、ここに来るたびに見かけていたハットを被った老紳士達や小綺麗に洒落た老婦人達を一人も見かけなかったのがちょっと寂しく、...時の流れをしんみり感じて。
一週間後チェック
発症した当初は、左目のまぶたが腫れ上がり、水泡のある発疹が顔の左半分に拡がってヒリヒリ痛むと言い、頭と首筋に強い痛みを訴え、吐き気とふらつきに苦しんでいた。
行きつけだと思っていた獨協医科大学埼玉医療センターに診てもらう事さえ断られて、急遽駆けつけた越谷市立病院だったが、結果的にはおかげで科を跨いだ診察・治療がスピーディに受けられてラッキーだったと思う。
まず、後遺症が怖い真っ赤に充血してまぶたの腫れ上がった目の症状を、すぐに眼科医に診てもらい検査・処置をしてもらった。
そして頭の痛みを強く訴える奥さんのために神経内科で細かくチェックして、ウィルスの影響を脊髄液をとって検査。
強い痛みが出るという帯状疱疹の対処を麻酔科で検査して、色々と教えて貰う。
最後に皮膚科で治療方針と入院・通院の相談と投薬の相談。
そして、医師に処方されて薬局で渡された薬を飲み続けて一週間...その治療効果を昨日30日に病院で検査・診察してもらった。
幸い腫れ上がって「お岩さん」状態だった左目は内出血も収まり、顔には赤い発疹と水泡の跡が広がるだけになっている。
吐き気は薬で収まりかけ、熱も平熱より「少し」高い程度になって、おかゆ以外のごはんも少量だが食べられるようになった。
ただ、まだフラついて体に力が入らない状態で、、完調には程遠い。
まず眼科で検査...内出血は治まりつつあるので一安心...まぶたの腫れが引けば大丈夫だろうとの診断。
次に神経内科で髄膜や脳に影響が出ていないかをチェック...骨髄検査はしていないが、まず大丈夫だろうとのこと。
そして麻酔科で、「どこが痛むか」と「痛みの強さ」をチェックして、それに合わせた痛み止めの処方と強い痛みが出た場合の「ペインクリニック」の説明を受ける。
そして最後に皮膚科で総合的な薬の処方の説明。
まだまだ完治には程遠いが、一応一週間の回復具合は順調らしい...当人は「まだダメ」と言っているが、吐き気が治まり食欲が出てくれば一安心。
と言う訳で....一応知識では知ってはいたが「帯状疱疹」は大変だ。
特に顔に出てくるものは脳や髄膜に広がる恐れがあるので要注意だと言う。
...もしそうなったら、重大な後遺症が残る恐れがあるんだとか。
この後はこの病気になった人に多く残る「痛み」がどうなるかの心配がある。
帯状疱疹は「治った」と言う状態なのに、ずっと強い痛みが残るケースが多いと言う...そのためにペインクリニックで「神経ブロック」とかの治療が必要になるかもしれない...と。
彼女は今はまだ頭の痛みを訴えているが、もう何日かでその痛みが無くなることを祈る。
なにしろ、もう少しでまた「旅ゴルフ」に行けるシーズンになるんだから。
救急車
昨日の夜、十一時過ぎ。
居間で寛いでいた俺の頭の上で、突然大きな「ドタン!」という音。
「え?」「転んだのか?」と、慌てて階段下に行くと、ボーッとした顔で奥さんがフラフラと階段を降りようとする。
「ちょっと待て待て!」と階段を駆け上がり、ふらつく奥さんを受け止める。
奥さんは市立病院でもらった薬を飲んで二階の寝室で寝ていたが、トイレに行こうとして立ち上がって転んだのだと言う(そこが畳の上で良かった)。
帯状疱疹が出てから、その治療薬の影響かどうもフラフラして足元が覚束ない。
この時は、二階にもトイレがあるのに、一階のトイレに行くと言い張る...「それに、おなかもすいたし(これが本音か?)...」と言うと急に意識が無くなり、倒れ込む。
抱えていた俺に体重がそっくりかかり、二人揃って落ちそうになるのをなんとか踏ん張って奥さんを階段に座らせる...呼び掛けても意識が無い。
娘も起きて来て「お母さん!」と呼びかける、が反応が無い...不安定な場所なので抱えて一階に降りて行ってトイレに座らせる...。
時々、「キモチワルイ」とか「ダイジョーブ」なんて呟くが、すぐにガクンと力が抜ける。
様子がおかしいので、娘に「119に電話して!」と声をかけ、救急車を依頼。
救急車はすぐに来てくれたが、奥さんの意識は戻ったり無くなったり...救急隊員の問いかけにも夢うつつのような生返事。
測ると血圧が低く、全身に冷や汗をかき、意識が戻るとオエッ!オエッ!と吐き気に苦しむ。
救急隊員と話をして希望する救急病院を探す...「最近通っている病院では?」「いえ、獨協医科大学埼玉医療センターは診察を断られたので、越谷市立病院にお願いします。」で連絡...OKで娘が救急車に一緒に乗り「越谷市立病院の救急」へ。
到着した病院を確認してから、俺は車で病院に向かう。
ここで深夜十二時過ぎ。
奥さんは到着してから救急で検査と診察...結果、主な原因として吐き気で食事がとれないし、食べても吐いてしまう上に下痢もあって、脱水症状とNa不足を指摘されて、治療は点滴(昼間にもう一度、皮膚科と神経内科で診て貰った方が良いと救急医の助言あり)。
点滴が終わったのが三時半。
終わって病院を出ようとすると、外は土砂降りの雨...濡れながら二人を車に乗せて家に帰り着いたのが、午前四時過ぎ。
点滴後の奥さんは、かなり落ち着いて来ていたが、まだ足取りはふらついている。
それでも、ゆっくりならなんとか歩ける状態...で家に着くなり薬を飲んで布団の中へ...安心したのかすぐに静かになる。
そこでもう四時半過ぎ、俺と娘は結局一睡も出来ずの久しぶりの完徹!
明るくなった空の下、娘はそのまま着替えて仕事場へ通勤。
俺は九時過ぎにもう一度市立病院に行くための準備。
(俺は久しぶりの完徹にも関わらず、不整脈が出なかったのが不思議...やはり2回目のカテーテルアブレーションの「面で焼くバルーン方式」の効き目か?)
驚いたのが、救急車を呼んで救急隊員にもお世話になり、救急病院で検査をして手当てを受けて、その料金が4千円未満だった事。
ただ日本の医療システムの素晴らしさに感謝するしかない...(元気な時には健康保険料の保険金の多さが不満だったのに。)
そして徹夜のまま、(救急医に言われた通りに)細かい検査を受けるために今日九時過ぎにもう一度越谷市立病院に。
そこで帯状疱疹の状態チェックと、昨夜の経過を説明して、その原因究明のための細かい再検査。
その検査を元に、細かい薬の調整。
...奥さんの顔の発疹は、お岩さん状態からかなりマシになって来ている。
騒動の後、しみじみ思う。
ありがたいなあ...救急車のシステムと、ちゃんと診てくれる救急病院。
本当に、本当にありがとうございました!
感謝しかありません。
門前払い...
感情で書けば罵詈雑言・誹謗中傷の類となり、バカッターと変わらぬバカさ加減が出て来るのはわかっている,,,俺はそんなに高尚な人間じゃないし。
時系列順に事実だけを書く。
まず一昨日から奥さんが、目の奥から頭の痛みを訴え、吐き気がして食欲がなくなる。
頭の痛みで夜眠れずに、気持ちの悪さを盛んに訴える。
昨日うちの奥さんは獨協大学埼玉医療センターで、午前中に予約の内科用の CTを受けて帰宅。
しかし、帰宅後に顔に発疹が出てきて、目の瞼が腫れ、左こめかみや鼻の左の大きな発疹がチリチリと痛み、吐き気が止まらずに(実際に吐いた)頭が痛いと訴える。
顔の発疹から帯状疱疹を疑い、近所の皮膚科を訪ね診察を受ける。
その結果「帯状疱疹」で、吐き気や頭痛などから脳や髄膜へのウィルス感染が疑われるので、大事をとって大病院での診察・場合によっては至急に入院しての点滴治療が必要かもしれない、との事。
この辺で大きな病院というと、私も奥さんも入院したり今も通院したりで世話になっている獨協大学埼玉医療センターしか思いつかず(しかもその日にCTでの検査も受けているし)、そこへの紹介状を書いてもらい病院に電話を入れるがつながらず。
(この前にその医院の先生が獨協大学埼玉医療センターに入院の予約を申し込むが、満床ということで断られる)
夜にも「至急治療が必要と言われたので救急で診てもらえませんか?」と電話したが「救急に回します」と言われたまま30分経ってもつながらず。
やむなく今日の8時過ぎに直接病院に向かう。
(「予約無しの人は8時から13時まで」とある)
しかし、帯状疱疹の治療にあっていると思われる皮膚科も内科も、受付で断られる。
奥さんは気持ちが悪くて吐き気がすると言って、立つのも座るのもフラフラ...昨日の夜から何も食べられず、液体を飲むのがやっとと言う状態。
...今日はうちの下の娘が、異変を聞いて仕事を休んで奥さんに付き添っていたが、肩を貸さないと動けない状態で顔色は真っ白だった。
我々も入院が物理的に無理なのは理解できる...それを無理に入院させろなんて言っていない。
しかしこんな状態なのでせめて診察だけでもして欲しい...以前からこの病院に入院・治療を受け今も通院しているのだし、時間がかかってもいいからどんな病気か、どんな状態かの診察をして欲しいと訴える。
...が、例え紹介状があっても「診察できない」「他の病院も紹介できない」との答え。
何を言っても「診察できない」の一点張り。
獨協大学埼玉医療センターとはそういうものらしい。
フラフラで半分失神状態で満足に歩けない奥さんは、はっきりと門前払いされた。
...感情は置いといて。
娘が奥さんの体を支えて車に戻り、まずは奥さんを助けることが第一と考える。
うちの奥さんの診察をしてくれる病院はどこかにないか?
で、思い当たったのは、俺が不整脈のアブレーション手術をする前まで通院していた越谷市立病院。
至急治療を受けた方が良いというフラフラの状態の奥さんを乗せて、大急ぎで越谷市立病院を目指す。
...越谷市立病院について受付で事情を話すと、病状の説明からまずは脳神経内科で診てもらい、腫れている左目を眼科でチェック、続いて麻酔科で痛み対策の相談、そして皮膚科で帯状疱疹への対応の相談、と順番に診察してもらう。
その間に昨日向こうでやったCT検査をもう一度受け、採血して血液検査、そして骨髄液の検査...
順番待ちの時間や検査の結果待ちの時間もあり、結果ほぼ1日かけての長い診察となった。
(その間うちの奥さんは、大部分待合室の椅子に横になったままだった)
で、その結果...病名は帯状疱疹と確定し、今後の治療方針も決定。
顔の部分に出た帯状疱疹は、後遺症や稀に起こる脳への感染が怖いものだと聞いていたので焦ったが、最悪の結果は免れたようだ。
しかし...本当に越谷市立病院は有難かった。
フラフラの患者を全く診てもくれず追い出す病院と、着くなり色々な科をまたいで迅速に懸命に診察してくれる病院。
決して獨協大学埼玉医療センターの医師や看護師が悪い訳ではない。
俺の担当をしてくれているN先生やT先生は本当にいい先生だと思うし、俺が治療を受けている時の看護婦さんたちはみんな親切で優しい。
...俺が市立病院からこちらに移ったのは、治療の先進性が理由...不整脈のカテーテルアブレーション手術は市立病院では無かったし、骨髄異形成症候群の治療もあちらでは出来なかった。
で、この結果だ。
患者が猛烈に多く、完全予約制で最新の治療が受けられるがイレギュラーを全く認めない病院。
患者は少ないが、イレギュラーな救いを求める患者を助けてくれる病院。
悪口は言いたくない...
助けてくれた病院に感謝するだけだ。
今はうちの奥さんは、越谷市立病院で処方してもらった薬を飲んで眠っている。